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高井田遺跡と千間川(地元の地理と歴史シリーズその8)

 今回は森河内の隣、高井田に関することを書いてみようと思います。
 まずは高井田遺跡です。そう、高井田に遺跡があります。とはいえ、跡を保存しているわけではありませんのでその様子をみることはできません。場所は高井田ライフより少し西側、高井田ポンプ場の周辺です。昭和38年に浸水対策事業としての排水管埋設工事の際に発見され、地表2mの地層に弥生土器片・石器・木製品。杭列などが出土。その後の周辺の発掘調査でも弥生時代前期末~中期初めの土器等、溝・ピット等の遺構が検出されたようです。
 2000年以上前は河内湖と呼ばれる淡水湖が広がっていたことが明らかになっています。河内湖が土砂の堆積によって小さくなり、旧大和川(今の長瀬川)が流れるようになる。そしてその自然堤防が遺跡の周辺に広がっていたと考えられ、その堤防の微高地上に集落が位置していたようです。(【東大阪市の遺跡ガイドブック】を参照しました)

高井田遺跡とその近辺から流れる千間川の流れ

 そして、その高井田遺跡周辺から流れる川がかつてありました。千間川といい、今では大阪市に中央大通りの北側で道路と公園として跡が残っています。川の北側は永田―東中浜―中浜、南側は神路-東中本―中本となっており、つまり城東区と東成区はこの川によって境界とされていました。最後は平野川へと流入する様子がいまでもその跡から伺えます。
 元々は明治期に灌漑用と農作物を船で運ぶために掘削された人工河川で、川幅約7m、延長が千間(約1.8km)あったことから名づけられたとのこと。子どもたちが泳いだり魚とりをしたりできる程、キレイな川であったとの話も地元の方のおばあさんの話として等、聞いたことがあります。出発点が高井田近辺というのが不思議に思いますが、森河内の本郷地域周辺から水路を通じて、また高井田方面からの水も集まっての流れのようです。
 千間川には多くの橋が架かっていたようで、「深江橋」も「緑橋」もこの千間川に架かっていた橋の名前、今でも地下鉄中央線の駅名として残っています。
 
 今では建物が多く想像しがたいですが、遺跡と川の過去の様子に思いを馳せながら、少し周辺を散歩するのも面白いかもしれません。

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