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竹下登の偽装生存 10/1

〔61〕竹下登の偽装生存
 竹下登が死亡したとされる日は、公式には平成十二(2000)年六月十九日である。ここで竹下登さんの晩年をウィキペデイアがどのように述べておるか、以下に転載する。

 平成十一年四月五日、変形性脊椎症のため北里研究所病院に入院。以後は表舞台に出ることは少なくなった。代わって、竹下と同じ島根県出身で「竹下の黒子」といわれていた参院議員青木幹雄が政界の実力者として取り上げられることが多くなった。
容態は次第に悪化し、四月に小渕が倒れたとの一報を聞いたことも手伝い引退を決意する。平成十二(2000)年五月一日、病床で録音した竹下の引退宣言のテープを、当時の小渕派の最高幹部たちが本人不在のなかで記者会見において発表した。
そこで次回の衆議院議員選挙に立候補しないことを表明し、政界からの引退を宣言した。引退表明後は議員でなくなったことで気力が失われたのか急激に弱っていったという。

 白金の北里病院に入院とされていた竹下登はすでに政界を引退していたが、小渕内閣のもとの不安定な政局を憂うる世間がその動静に世間が注目していたのは当然である。
 徳川家から引き取った奉天秘宝などの処分を、竹下登生存中は先送りと決めていたわたしは、偽装死した竹下登の薨去を小渕恵三政体がいついかなる形で公式発表するか気をもんでいたところ、本願寺忍者の斉藤敏一郎が「そもそもこんなときは、世間が大きな事件で混乱している時を待っておって、ここやという時に出してくるんですわ」と説明してくれた。
 平成十二(2000)年四月二日に倒れた首相小渕恵三が担ぎ込まれた東大病院で人事不省の中森喜朗が後継首相となり、かすかに遺言を聴き取った参院議員青木幹雄が臨時首相代理として議会解散を宣言し、六月二十五日が選挙日となる慌ただしさのなか、六月十六日に香淳皇后が崩御される。
 斉藤の言う時が来たのである。選挙戦最中の六月十九日、はたして竹下登の死去が発表されたが、前後して毎日新聞の報道があった。「看護婦に変装した同社の女性記者が北里病院に潜入し、病室における竹下の動静を観察してきた」とのことで、「竹下さんは元気で、衆院選挙の動向をテレビで見ていた。なお病名は噂される膵臓がんではなく変形性脊椎症と断言したが、公式発表では膵臓癌ということであった。
 つまり、毎日新聞の記事は、「竹下登は膵臓がんでなく変形脊椎症により入院中で病状はそう悪くない」との虚偽事実を報道するのが目的であった。となれば、女性記者が看護婦に変装して潜入などは、当然ながらウソと思った。そもそも北里病院のセキュリテイがそんなに甘いものでないことは、一年前にわたしが確認していたのである。
 実際の死去日から一年二カ月余り後の日が竹下登の公式な薨去日として発表された。これでわたしは緊張を緩めたが、それにしても何のための偽装生存だったのか。今になっても分らないが、世上ではCIAに殺害されたとの噂が根強いから、やはりその方面かと思う。
 噂だけでなく、平成九年頃にさる極めて有力な方面から聴いていたことと、状況的に符合するからである。本稿の流れとも深く関係することであるから、思い切って述べようか。
 「落合さんはどう思っているか知らないが、竹下さんは、ホントはコワい人だよ。竹下さんが今やっているのは、中国の経済を日本の力で大きくしてやることだ」とのことで、そのあとに続いたのが次のことばであった。
 「中国人の図体に日本人の頭が乗っかった場合には、到底勝てないと、アメリカは知っているよ。だから馬鹿なフリをしながら進めている竹下さんは本当はコワい人なんだよ」
 それまでのわたしは極めて浅薄な思考に捉われるだけで洞察力を発揮したことがなかった。竹下さんには新幹線の車中で一度だけ見かけただけであるが、正直言ってその人を軽く見ていた。理由は竹下さんの学歴と職歴を表面だけ見たからにすぎないのである。
 当初はそこまで感じなかった「竹下コワい」の一言の意味が、右の偽装生存の過程を観察することでわたしの中で次第に重きをなしてきた。「洞察がすべてに勝る」との考えが芽生えたのである。

 以後のわたしは、竹下登こそ吉田・岸・佐藤・田中など歴代首相中の大物より一段高い存在、と観るようになった。七月に薨去された安倍晋三氏との比較については、未だその段階に非ず、というだけにしたい。



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