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〔97〕昭和帝は岸が嫌い、とは本当か?

〔97〕落合莞爾國體論の断片 昭和帝は岸が嫌い、とは本当か?
 二三日前に届いた月刊日本令和五年8月号を手に取り、パラパラと開くと以下の論説に接しました。
 「石橋湛山没後五〇年」という特集に、倉重篤郎というジャーナリスト人が「湛山についてのあるエピソード」と題する一文を投じています。
 まず「湛山の小日本主義における、自立自存・軍事抑制・交易経済拡大路線が今の日本の行き過ぎた対米追従・軍事抑止力重視・ブロック経済化路線に対するアンチテーゼとして成立するように見える、と自らの湛山観を明らかにした倉重氏は、湛山研究を深めるためとして、下記のエピソードを語る。

 そのエピソードとは、最近見付かった昭和三十五(1960)年4月20日付の湛山発・岸信介宛ての私信に関するもので、折から日米安保の改定を巡る激しい政治対立を強行採決で乗り切る構えの岸首相に対し、前首相の湛山が之を諫める主旨の私信の中に、「敢えて自分の見解は述べないが、一点だけ貴下の反省を望みたい」としてある秘話を伝えたことです。
 その秘話とは湛山が国会で首班指名を受けて組閣した昭和三十一年末のことで、湛山が提出した閣僚名簿をみた「ある一人の人」が極めて深刻な顔をして、「自分はこの名簿についてただ一つ尋ねたいことがある。それはどうして岸を外相にしたのか、ということである。彼は先般の戦争において責任がある。その重大さは東條以上であると自分は思う」と湛山に語った、とのことです。
 戦前ならばこれだけで直ちに引責辞任をせねばならない所、と恐縮した湛山が、百方辞を尽くして了解を求めたところ、「かの一人の人」はそれ以上の追及はせずに了承したが、「とにかく岸は東條以上の戦争責任者である」と念を押した、という話です。
 この私信は湛山自筆の草稿とそれを清書した控えで平成二十七年八月に東洋経済新報社の倉庫で見つかり、清書版の末尾に「4月22日10時20分椎名官房長官に手渡す中島」との付記があり、湛山側近の中島昌彦のものとみられるとの事です。
 問題はいうまでもなく組閣した湛山が閣僚名簿を提出した先、すなわち「ある一人の人」の正体です。これについては普通なら、「誰が見ても昭和天皇その人を措いてない」と思うし、落合もそう思いながら一旦は読み終えました。
 昭和天皇が岸信介に倦厭の情を抱かれたことについては、平成十六年に中曽根康弘元首相が著した『自省録』において述べた小話が傍証になると、倉重氏は言います。
 岸信介が薨去した昭和六十二年八月、時の首相中曽根が那須御用邸でご静養中の昭和天皇に「正三位大勲位菊花章」の叙位叙勲を奏請した際、功績調書を読み上げた処、陛下は即諾なされず、やや時間をかけてから「そういうことであるなら承認する」と言われたと、中曽根の『自省録』に在るからです。
 ちなみに、この倉重論を一見した白頭狸が真っ先に引っ掛かったのは、「正三位」が「大勲位菊花章」と相当しないからで、確認したところ正しくは「正二位」です。それよりも気になるのは、「ある一人の人」および「かの一人の人」とははたして昭和天皇その人であろうか、ということです。
この後は〔98〕にします。

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