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〔130〕辛亥革命は醇親王と堀川辰吉郎が計画し、ワンワールド國體が承認し、孫文が実行した

〔130〕辛亥革命は醇親王と堀川辰一郎が計画し、ワンワールド國體が承認し孫文が実行した

 満洲問題は日本にとって過去の問題ではありません。そんなに遠くない将来に必ず起こり、日本も逃れる事の出来ない問題なのです。つまり、来るべき満鮮問題の、日本は当事者なのです。
 このことを諸兄姉にお知らせし、かつ考えて頂くために、落合はこのnote を書いているのです。日本はいかに対応すべきか腹案はありますが、まだ固まっていないので、考え巡らしながら進めています。
 既に最終段階に入ったウクライナ戦争において、岸田日本は非常識なことをしでかしました。早々にロシアに宣戦したことです。
 尤も落合は、岸田首相のこの対露宣戦を、アメリカの間接統治下にある国の首相としてやむを得ず採った行動と見ております。どうせ協力を命ぜられるなら、いそいそとやった方がマシだと思ったのでしょう。それも一つの策ですから。
 しかし、外交の岸田さんですから、その裏で必ずプーチンさんとの間に話を通している筈です。このような場合、然るべき人を仲介に立てるのが当然で、その名も落合は念頭にありますが、ここでは語りません。
 さて、これまで述べてきたように、辛亥革命後の満蒙(満洲とモンゴル)の在り方を決めてきたのはワンワールド國體勢力です。
 辛亥革命後、國體勢力は馬賊の頭目張作霖を愛新覚羅家の傭兵として、大清帝国の陪都で満洲の首都たる奉天(現在の瀋陽)に軍事政権を造らせました。
 具体的には、明治四十二(1909)年に孫文の案内で紫禁城に入り、城内の一小院に居を構えた堀川辰吉郎が、光緒帝の異母弟醇親王(二代目)と結託して密かに立案し実行したのです。
 孝明天皇の皇太子睦仁親王は、慶應三年に大室寅助に政体天皇(明治天皇)を継いで貰って表の皇統譜から外れ、堀川御所に隠棲して明治十三年に堀川辰吉郎を儲けたのです。睦仁親王が二人いたので、ホンモノの方を落合は「堀川殿」と仮名で呼んでいます。
 堀川辰吉郎は堀川御所で幼時を過ごし、明治二十(1887)年に博多に遷ります。
 博多では井上馨の後見のもとに玄洋社の頭山満の世話で成長し、上京して学習院で学んだあと、十六歳で頭山満らにより孫文に引き合わされます。
 メソジスト教会の信者で、「チャイニーズ・フリーメイスン」と呼ばれる秘密結社「洪門」の首頭たる「洪棍」に推戴された孫文(1866~1925)は正にワンワールド國體の要人の一人です。ちなみに孫文は堀川辰吉郎より十四歳の年上で、「洪棍」に就いた時は三十九歳でした(本稿はすべて数え年です)。
 以後、孫文の側近として常に同行した辰吉郎を、孫文の周辺は「日本王子」と触れ回り、ために孫文の信用は高まった、ということです。
 辛亥革命の内幕は、政府公認の教科書歴史は言うまでもなく、世間に流布されている所とも大きく異なります。裏面が明らかになると政治道徳上でも不都合があるため、現行政体は真相を公表されたくないのです。
 ともかく、辛亥革命は愛新覚羅家の当主醇親王と國體天皇堀川辰吉郎が共謀し、ワンワールド國體の承認のもとに実行したものです、「革命」の名に値するかは議論があろうかと思いますが、国家の権力基盤の交代をもたらしたからには「革命」と謂えるのかもしれません。

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