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〔136〕後藤新平のソ連入りとスターリン支援

〔136〕後藤新平の「ソ連入り」とスターリン支援
 (承前)いずれにせよ、昭和三年のソ連を再訪した後藤新平は、スターリンとの会談において「何事か」を決めてから帰朝しますが、昭和四年四月四日、岡山行の急行列車内で脳溢血を発病し、輸送された京都府立医大付属病院に入院したまま同月十三日に薨去しますが、むろん偽装死です。
「周蔵手記」の「別紙記載」昭和四年条に、王希天と吉薗周蔵が後藤新平の個人付「草」(諜報員)であった藤根大庭を交えて、後藤新平の死について語る場面があります。堀川御所の岩切ギンヅルに仕えていた藤根大庭は、水沢出身の地縁で後藤新平にも属していたのです。
 関東大震災を利用して失踪(偽装死)した王希天は、以後は周居應を称して中野上高田に周蔵が造った第二救命院に棲み、アヘンを用いた諸研究を行っていましたが、その一つが「全身麻酔による偽装死」です。王希天は「後藤新平はこれを用いて」偽装死に成功したことを見破ったのです。
 列車内で発病して京都府立医大附属病院に運ばれた後藤は、そこで偽装死しますが、この一件を計画したのは元警視庁警務部長正力松太郎で、現場で実行したのが警視庁特別警察部に潜入していた布施一です。
 大正十二(1923)年の「虎の門事件」(難波大助事件)により警視庁警務部長を罷免され、後藤新平の世話で読売新聞社長になった正力松太郎が、東京から事態の進行を監視していたのです。布施は、周蔵が渡欧前に医学を教わった東大教授呉秀三が院長を兼任していた巣鴨病院の事務長をしていた時に周蔵と知り合い、その後頻繁に周蔵を訪れてきましたが、実は警視庁特高部に属する諜報員で、周蔵のもとに集まる無政府主義者を監視していたのです。つまり布施は、辞職後の正力の配下だったのです。
 辞職後も人が畏れる警察権力者になった正力の存在が、「偽装死の暴露を防ぐ重石になった」と、落合は聞いております。

 後藤新平偽装死一件は、落合が拙著『石原莞爾の理念と甘粕正彦の策謀の狭間』において初めて発表したものです。後藤新平の場合は正力松太郎=布施一のラインでまんまと成功しましたが、のちにこの方式を用いて満洲で偽装死したのが甘粕正彦です。この一件も落合が同著で初めて発表したものです。
 さて後藤新平とスターリンが昭和三年の会談で「何事か」を決めたことは前述しましたが、その「何事か」を探らねばなりません。
 
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