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張作霖は大東社が送りこんだ傭兵 11/26

 〔95〕満洲の僭主張作霖、実は諄親王の傭兵 
 古今の書籍を蒐集したことでしられる『四庫全書』は、乾隆皇帝が乾隆六(一七四一)年に発した詔勅により作成が始まり、乾隆四十七(一七八二)年に完成した。
 正本七部・副本一部が作成され、正本を収めるため紫禁城に文淵閣、円明園に文源閣、熱河避暑山荘に文津閣など要地の重要施設に書庫が設置され、奉天の盛京宮殿にも文遡閣が設けられたが、それに前後して乾隆が銀九万両を下賜している(杉村勇造『乾隆皇帝』)。
 目下その書が書庫に埋もれているため確認できないが、記憶では乾隆四十六年か四十七年である。この時、奉天で文遡閣建設に紛らした秘密工事の費用を乾隆が手許金から出したと見るが、だとすれば、その工事は宝物を収蔵する倉庫と観るしかあるまい。
 奉天には盛京宮殿内に陶磁器の収蔵庫が設けられていたことは、キッチナー元帥を巡る逸話で知られるが、この秘密倉庫はそれとは別に、二代皇帝ホンタイジの墳墓たる北陵の中にそれとなく設けられていたことが、「吉薗周蔵手記」で判るが、乾隆以来光緒に至るまでの歴代皇帝手元の宝物が運び込まれて収められていたのである。

 西太后と光緒皇帝が相次いで急逝したことで愛新覚羅氏の首頭となった醇親王が、奉天の軍権を握った張作霖に命じて右の奉天宝物を強奪させた。正確には強奪を装って張作霖父子の司令部に遷させたのであるが、醇親王の主旨はその宝物を換金して得た資金を張作霖に与えて軍備に宛てさせることにあった。換金先は醇親王を援ける隣国の日本である。
 辛亥革命後の満洲統治について醇親王と堀川辰吉郎が練り上げた計画は、当時奉天の治安維持者であった馬賊上がりの軍人張作霖を密かに傭い、奉天省の省長兼督軍すなわち事実上の奉天王に就けて満洲の統治を暫定的に委任することであった。
 張作霖は清末に満洲に流入してきた経済難民の子息で、幼時に実父が死亡したため、母の再婚相手の馬医者の養子となり、旅館の番頭などをしながら成長したとされている。馬賊の群れに入った張作霖は、日清戦争の際に帝国陸軍との関係を生じた。清朝軍のスパイとして活動していた張作霖を田中義一中佐が拾い上げ、日露戦争ではロシア軍の後方攪乱に当った等と云われるが真相は判らない。というより意図的に創られて流された噂、すなわち偽情報であろう。
 狸がかく言うのは、長男張学良の生年が日清・日露の戦争の中間の明治三十四(一九〇一)年であるからで、今は詳説しないが、張学良は張作霖の実子でなくワンワールド國體の西の棟梁ハプスブルク大公隷下の大東社が秘密工作して張作霖の長男にした、とみられるからである。
 つまり張作霖を傭兵として満洲統治に当らせる計画は日清戦争頃から始まっていたのであるが、ひょっとして張作霖その人が生まれながらの傭兵であった可能性が高い。
 ともかく張作霖の出自や経歴は当時から謎に包まれていたが、近来はさらに伝奇的な考証をなした中華人民共和国の若手学者がいて、張作霖の出自は何代も前から北陵を護る任務を負って奉天に在住していた一族であると主張する。
 張作霖を大きく見れば、全体として状況と整合するので面白いと思うが、当面検討する時間が白頭狸にはないのが残念。どなたか、この説を掘り下げてみて下さらぬか。ふふふ拾得先生、高島くんなどいかがかね?
 結局、張作霖を愛新覚羅家の傭兵とする策謀はワンワールド國體に加わっていた醇親王のために大東社が考案したと観るべきであるが、堀川辰吉郎と醇親王の協働もその伝であることは言うまでもない。
 ところで、白頭狸は今から上京し、佐藤和夫さんの会で講演します。会場は文京シヴィックホールで、狸が藤井厳喜の紹介により中森インサイトの講演会で初めて講演した思い出の会場である。
 という訳で、月曜日まで本稿はお休みとしますが、加太春日神社の支援活動は続いておりますので、奮ってご寄進ください。

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