見出し画像

張作霖を巡る二元外交(続)1/6

 〔113〕張作霖を巡る二元外交の根源(続)
 第二次満蒙独立運動のとき参謀本部支那課長に任じていた浜面又助大佐が山縣閥の一端に属したと観られることを〔112〕に書いた。 
 そもそも帝国陸軍の母型は紀州(和歌山)藩の執政津田出と陸奥宗光が創設した紀州藩戌営である。
 明治二年二月、紀州藩主徳川茂承の命を受けて藩政改革と洋式兵制の採用を進めた津田出を補佐したのが、同藩勘定奉行の子息で明治政府に入っていた陸奥宗光である。
 第二次長州征伐の総督となったばかりに維新に乗り遅れた紀州藩の苦境を救ったのが、英国公使パークスの秘書官アーネスト・サトーと通じていた陸奥宗光であった。陸奥がサトーの仲介で遇ったパークスからの開国勧告を岩倉に伝えたところ、従来の方針を変えた岩倉が紀州藩に穏便の沙汰を下したのである。
 明治元年に出来たばかりの維新政府の外国事務局御用掛として陸奥が登用されたのを、その時の功績と観るのは維新史の皮相しか目に入らぬからで、実は陸奥の新政府入りは十年前から決っていたのである。
 十五歳で故郷を出た陸奥の江戸における行跡が定かでないのは、陸奥はこの期間のほとんどを、京都粟田口の青蓮院境内で過していたからである。
 当時五万坪あった青蓮院境内には朝彦親王が造った京都学習院があり、諸侯の一部を始め雄藩の重臣や下士さらには少壮公家などが出入りして国事を論じていた。なお表向きには御所建春門外に京都学習所があったが、これはアリバイのための施設である。
 幕末維新のことは、この青蓮院内の「京都学習所」の真相を知らないで語れるものではないのである。

 幕末の宮廷は五摂家がその力を失い、朝廷を運営していたのは中山忠能・正親町三条実愛・中御門経之の「幕末三卿」であった。朝廷の外では青蓮院宮(のち中川宮・尹宮・久邇宮)朝彦親王と将軍後見役一橋慶喜が手を組んで建てた「一尹政権」が、間接的に朝廷と江戸幕府を支配していた。
 山階宮晃親王は朝彦親王の兄で、幕末の最終期に朝彦親王と交代して維新政府に加わり外国事務総裁となったのである。
 朝彦親王のご内人で連島商人の三宅定太郎が紀州を訪れ、逼塞中の伊達宗興に「脱藩上京して青蓮院に仕えるべし」との朝彦親王の指令をもたらしたので、脱藩した伊達千広と宗興の父子が粟田口に至り、青蓮院に入る。
 これに応じて陸奥も江戸から上京したとされるが、経緯が審らかでなく、陸奥はすでに青蓮院内で朝彦親王に仕えていたと見る方が合理的である。

 要するに伊達千広と養子伊達宗興および実子陸奥宗光は、いずれも國體に奉公してきた特殊の家筋で、しかもその血統は何代か前に欧州貴族が浸入していると見られるのである。
 もっと言えば、伊達千広は二、三代前にドイツ在住のハプスブルク大公系が入ったと思しく、折角兵庫県知事の高官になった陸奥が明治二年に辞職して「和歌山藩欧州執事」なる名義を掲げ、伊達宗介の変名で渡欧するのも、ハプスブルク大公隷下の秘密政治結社に入会するためであった。
 この結社を白頭狸は「大東社」と呼ぶが、この呼称が正しいかどうか分からないのは、その存在自体が秘密にされてきたからである。

 因みに陸奥がこのあと、配下の古河市兵衛が興した古河鉱業をドイツのジーメンス社と提携させ、富士電機を興したのも、このような背景を知らなければ理解できないのである。
 ようするに陸奥が紀州藩を脱藩したのは、如上の血統的背景からなる國體奉公衆として維新政府に加わり統治に参加するためで、外国事務局権判事になった陸奥の兄貴分が二歳年長の伊藤博文で、一階級上の外国事務局判事となった。
 狸思うに、薩長土肥が権勢を揮う維新政府の中で佐幕藩から出た陸奥の処遇が危ぶまれるところから、陸奥を支援するために外国事務総督についた晃親王が、長州藩出身の伊藤博文に陸奥の保護を命じたと考えるのが妥当であろう。話が長くなったが、このあたりは拙著『国際ウラ天皇と数理系シャーマン』、『日本教の聖者西郷隆盛と天皇制社会主義』あるいは『ワンワールドと明治日本』に詳述したので、そちらをご覧いただきたい。
 ともかく会計官権判事から兵庫県知事と、誰憚ることなく維新政府の登竜門を昇っていた陸奥が明治二年に突然職を辞し、翌年三月、伊達宗介の偽名を用いて渡欧するのは、藩政改革もさることながら、それを上回る重大な理由があった。すなわち「大東社への入会」と白頭狸は思うのである。

いただいたサポートはクリエイター活動の励みになります。