見出し画像

大室寅助が選ばれた理由3


〔3〕大室寅助が選ばれた理由 令和四年五月三十日/六月十日改訂
 承前
 永世親王閑院宮の初代直仁親王(1704~1753)は、公開された皇統譜では東山天皇第三皇子とされているが、この方は実はベルギー王室から皇統に入られたのである。
 ベルギー王室ザクセン=コーブルク=ゴータ家の始祖ヨハン・エルンスト四世(1658~1729)は、一六七五年に薨去した領邦君主ザクセン=ゴータ公エルンスト一世の末子で、一六九九年に後継者の無いまま薨去したザクセン=コーブルク公アルブレヒト五世の所領を受け継いだのである。
 南北朝時代に渡欧した大塔宮護良親王の王子王孫が渡欧した事情は拙著『南北朝こそ日本の機密』(成甲書房・平成二十五=二〇一三年初刊)が初めて明らかにしたが、その執筆時には南北朝を巡る秘実、ことに伏見宮治仁王の渡欧に関する國體秘事伝授をまだ受けていなかったわたしが、詳しい伝授を受けたのは四年後であった。
 衝撃を受けたわたしは、何を措いてもこれを公開すべし、との義務感に駆られて平成二十九年に著したのが『日本皇統が創めたハプスブルク大公家』(成功書房)で、京都皇統代すなわち高松宮妃喜久子妃殿下から舎人を通じて新たに伝授された國體秘事を明らかにしたものである。
 國體秘事の根本を成す重大事は、後醍醐天皇と後伏見天皇が後二条天皇を父とする双子の兄弟だったことである。これを知ったわたしは、前著『南北朝こそ日本の機密』の内容を一刻も早く改めて世間に発表するために著したのである。
 真実の世界史ことに世界王室史を知らんとする方々には必見の著と自負するが、ここで一言お詫びせねばならぬことがある。同著三四二頁から三四三頁にかけて掲載する皇統図において、後村上天皇と懐良親王の兄弟が護良親王の弟なるべきところ、印刷の誤りで後醍醐天皇の弟たる位置に置かれているから、読者には、それを心得ていただくことを願う。
 南北朝の深奥の秘事は同著に詳述したからここは割愛するが、本稿の読者あるいはその他の人々が皇位継承問題について語る場合、必ず忘れてはならない重大事をここで協調して置く。それは「大塔宮護良親王の男系遺伝子を伝えるザクセン=コーブルク=ゴータ家の男子は今日でも日本の皇位継承権を持っている」ことである。
 直仁親王生誕の一七〇四年は、本朝では江戸幕付開府の百一年目で、元禄十七年が宝永元年に改元された年である。当時、ワンワールドの西極では、スペイン・ハプスブルク家の最後の王となったカール二世の後継を巡るスペイン継承戦争(一七〇一~一七一四)の最中で、これを受けて北米大陸でも英軍と仏・西軍の間でアン女王戦争(一七〇二~一七一三)が戦われていたが、期を同じくしてワンワールドの東極では、南北朝から始まる伏見宮系御花園王朝の交代が謀られていた。
 十七、八世紀の交に欧州領邦君主の間で生じた相続争いの大渦の中で、ザクセン=コーブルク=ゴータ家に誕生したのが直仁親王である。その出生の事情は窺い知れぬが、ワンワールド國體の東西両極には、直仁親王に関わる何らかの伝承があることは間違いあるまい。
 目下騒がしい女性天皇論で必ず話題にあがる旧宮家の中には、幕末に後南朝が混入してことで皇位継承権を有しない家も多いと聞くが、そのような有職とは縁が遠い地下(じげ)の衆がひたすら騒ぐのはやむを得ないのであろうか。因みに「後南朝」とは護良親王の弟たちの末裔を護良親王の末裔たる「(正)南朝」と区別するために謂うのである。
 幕府儒官新井白石の建言で、享保三(一七一八)年に祖父霊元上皇から永世親王閑院宮号と所領一千石を賜った直仁親王の王子典仁親王が、安永八(一七七九)年に後嗣なく崩御された御花園天皇の跡を継ぎ光格天皇となって光格王朝を開く。
 つまり永世親王閑院宮家の創設は、享保元(一七一六)年に紀州家の徳川吉宗を江戸徳川家に入れ、幕府将軍にして皇別徳川家を創設したのと同じく、王朝の更新のために行われたのである。
 ちなみに貞享元(一六八九)年に紀州侯徳川光貞の湯殿番であった巨勢お由利の子に生まれ、五歳まで家老加納氏の家で育てられた吉宗は、まことは伏見宮家の一員で、右の亊歴はそれを隠蔽するための作り話とみるのが合理的である。母お由利を巨勢姓にしたのもその流れではないかと思う(続く)

いただいたサポートはクリエイター活動の励みになります。