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〔127〕張爆殺の影響を調査に行った周蔵が満洲で石原莞爾と出会う

 重大な誤りがあったことを10/5に発見した落合は、直ちに訂正しましたので、以下にはそれを掲げます。
 
 〔127〕張作霖爆殺の影響を調査に行った満洲で石原莞爾と出逢う
 昭和五(1930)年四月、吉薗周蔵は満洲へ旅立ちます。目的は藤田嗣治に告げた通りで、張作霖爆死後の現地の状況を見るためです。
 
 〔周蔵手記〕昭和五年四月条
 四月、満洲へ発つ。甘粕さん満洲に移動されたらしい。訪ぬる。二か月ほどの予定。
 例の金塊を持って行く。甘粕さんはこれから、キリがなく資金が必要だろうから、大した金額ではないが預金をはたいていく。
 
 フランスから帰国したが日本へ寄らずに朝鮮へ行った、と聞いていた甘粕が、満洲へ遷ったと聞き、早速満洲へ訪ねていくことにしました。
 張作霖爆殺の黒幕を上原元帥と見抜いた周蔵は、これから始まる満洲工作の担当者が甘粕であることを確信し、工作資金を限りなく必要とする甘粕を資金援助するため、自分の預金をはたいて現金にしたのです。
 ついでに、スイス・アルザス黄金の運搬工作の褒美として上原から頂いた金塊三本も持参したのは、大した金額にはならないが、現金と併せて甘粕に進呈するためです。
 
 「周蔵手記」昭和五年四月条続き
 △例の金塊、貴志さんは半分くらい集めたところで、張作霖はやられたらしい。貴志さんは上層部に、申告と云うより告発をされた、とのこと。
 今更、軍部でどのように後悔されようと、もう死んだ者は戻らず、事の方向性は変ったのである。
 
 ロマノフ黄金は貴志彌次郎が半分ほど集めたところで張作霖がヤラレタ、
と聞いた周蔵は、上原の命令とはいえ無二の親友となった張作霖を支援する
資金とするためにロマノフ黄金を回収収していた貴志が憤懣やるかたなく、
陸軍上層部に告発したとも聞きました。
 この「陸軍上層部」が上原勇作元帥でなく、総理大臣田中義一大将を指したのは当然です。
 貴志の田中首相に対する報告は、現地で火薬・導火線などの遺物に当り科学的な調査により「犯人は関東軍」と断定したもので、疑いを容れないものでした。

 爆殺事件に関する昭和天皇の御下問に対し、田中義一は「わが軍の関与が事実ならば厳正に対処します」と答えましたが、結局のところ、犯人を日本軍人と認めなかったのは、当時は「帝国陸軍の総意」に背くことが総理大臣としても困難だったからです。
 真犯人は関東軍高級参謀河本大作大佐(士候15期)で、停職から予備役編入となり、上官の関東軍司令官村岡長太郎中将(士候5期)は事件に関係したとして翌年予備役に編入されます。直属上官の関東軍参謀長三宅光治少将(士候13期)は無関係とされて任務を続けます。
 何の責任かを世間に明らかにしないまま、河本らを予備役編入した「陸軍上層部」が張作霖爆殺事件に抱く感情は、個人それぞれでありましたが、時間を置かずに統一され、「全陸軍の総意として河本を護る」という感情に移行したのです。
 これにより昭和天皇の叱責を蒙った田中義一が不審死を遂げることと、その詳細を「周蔵手記」は記していますが、ここでは省略します。

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