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〔142 〕清国は一国両制か同君連合か?

〔142〕大清帝国は一国両制か同君連合か?
 そもそも大清帝国は、満洲に起ったツングース系の女真族(満洲族)が支那本土(チャイナ・プロパー)を支配する漢族が建てていた大明帝国を合併した満・漢の連合王国です。
 世界史では征服者(国)が被征服国(民)を隷属させて直接支配する「植民地」の形が普通ですが、被征服国(民)が征服国に比べて物理的・文化的に大き過ぎて、征服者の支配権が及ばない場合があり、この場合は有効な支配のために独得な工夫を凝らします。
 その一つは、貿易独占のための勅許会社を置く方式です。ムガル帝国の下に多数の藩王国が抗争を繰り返していたインド亜大陸に進出したイギリスは「東インド会社」を置いて貿易を独占することで間接支配を進めましたが、これに対する住民の不満が募り、一八五八(安政五)年に「インド大反乱(セポイの乱)」が勃発しますが、これを鎮圧したイギリス軍によりムガル帝国は滅亡し、イギリス領インド帝国が誕生します。インド皇帝をブリテン連合王国女王ヴィクトリアが兼ねることでインド帝国とブリテン連合王国は「同君連合」となり、他の植民地を併せて「大英帝国」と呼ばれます。
 満洲族が建てた大金帝国の支那本土支配も実質は「同君連合」です。これを唱えた史家がこれまでいたかどうか知りませんが、大清帝国の実質は「後金大汗(皇帝)の愛新覚羅氏が支那本土を治める大清皇帝を兼ねる同君連合」、と唱えるのが落合史観です。
 漢族の朱元璋がシナ本土(チャイナ・プロパー)に建てた大明帝国を、寛永十三(一六三六)年に滅ぼした後金(満洲帝国)の太宗ホンタイジは、大明帝国の国号を大清帝国と号して崇徳と改元します。
 大清帝国は後金領(満洲)を併合して東三省とし(時期不明)、ここに漢族の流入を禁止します。
 東三省を構成する奉天・吉林・黒竜江の三省ではそれぞれの「将軍」が地方自治に当り、大清帝国の陪都(副都)と定めた奉天に設けた「奉天府」は北京の行政制度に倣い、「奉天府尹」の下に戸部・礼部・兵部・刑部・工部を置くという特別の行政組織を敷いていました。
 つまり支那本土とは行政制度の異なる「満洲人特区」とされていた東三省は、そのままを「満洲族の特区」と観るのが正しいのです。この国家形態を東洋史では「一国両制」と呼びますが、西洋史でいう「同君連合」と本質は同じ、と落合は考えます。
 辛亥革命以後の満洲の政治形態を考える時、この考えを基準にしないと訳が分からないのですが、史学界が未だに整理できないのは、それぞれの史家が権力・金銭・名声など我欲に捉われているからです。
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