見出し画像

〔103〕華頂情報と落合史観の照合(1)8/14 三度にわたり重要加筆

〔103〕華頂博一さんの発信と落合流國體史観との照合(1)
 本日は盂蘭盆会(月遅れ)の初日で先妣井口藤子(本法院妙相日藤信女)の命日でもありますが、何よりも本年二月二十六日に卒去した実弟の従四位井口洋の新盆ですから逆修ながらおろそかにはできません。
 昼過ぎの菩提寺本光寺さんのわか住職の回向により、肩の荷を下ろした落合は、その直後にわかに脚が動かなくなりました。
 言わずと知れた熱中症ですから冷房の効いた寝室で静養するしかなく、これを機に横たわって華頂博一さんのユーチューブを聞いておりました。

 落合は目下、博一さんからこれまでに得た情報を落合史観とすり合わせながら整理しておりますが、博一さんについて注目されるのは次の諸点です。
 8/13に書いた後、13日夜にみたユーチューブにより、修正および加筆を致しました。さいわい〔103」はこれまでの視聴者が少ないので、ここで修正します。

 ➀十一年前(平成二十四=2012年)の2月25日に天啓を受けて全地球的一大事の到来を覚った博一さんは、翌2013年8月31日にも同様のことを経験し、以来十一年間にわたり伏見宮家の謎を探究してきた。
 そもそも自分にはなぜ母がいないのか? 父(華頂博裕)も祖父(華頂博信)も曽祖父(伏見宮博恭王)も、さらには高祖父(貞愛親王)も母が定かでないのはなぜか? これを知りたかったからである。
 ➁その数年前にオリオン座の動きを観ていて、地軸のずれが発生したことを知った。気象が大きく変化する前兆である。気象に大変化があった時に人類は進化する。その時が来たのだ。
 ➂平成二十九(2017)年10月17日、宮内庁から呼び出しあり、一人で参内して平成天皇から直々に言葉を賜った。
 ④宮中に古くから伝わる秘文書を見せられ、伏見宮家のことを知った。伏見宮は長い歴史の中で地球を二周している。
 二回目は600年前で、西欧でルネサンスを起す目的で伏見宮治仁王が欧州へ戻り、跡継ぎが絶えた伯爵家に入ってハプスブルグ大公家としたが、その末裔は今も「エブリンテスコ(?)」という地に存在する。
 ⑤皇室の男系はネアンデルタール人の血を伝えている。
 ⑥博一さんの生日は昭和三十四(1959)年二月二日で、誕生地は曽祖父の伏見宮博恭王が佐世保鎮守府長官に就いたときに棲んだ佐世保別邸のようである(落合の推定)
 広島県鞆の浦には華頂家(伏見宮家)の”秘密の本拠”があり、幼少時代の博一さんは鞆の浦で祖父華頂博信(元皇族→侯爵)と、配偶者常子の下で育った)らしい(落合の推定・要確認)
 ⑦博一さんの義祖母であった常子はハワイ人女性で体格が優れ、地域の女相撲では毎年勝ちっぱなしであった。勝者は「おてもやん」に扮し、あるいは「ドジョウ掬い」などを踊るのが慣習で、祖父博信は「女相撲とおてもやんの真似、ドジョウ掬いだけは、何とか止めてほしい」としばしば常子に懇願していた。
 ⑧祖父博信は明治三十八年5月22日生まれで、実際は八十前まで長生き(初稿は九十歳までとしたが訂正するも要確認)したが、なぜか昭和四十五年10月25日に六十五歳で死んだことにされ、海軍中佐の軍人恩給が打ち切られて苦労した。この年に「偽装死」したのは、しかるべき理由がある筈だが分らない。

 落合が今迄に聞いた博一さんの話を要約すれば大体以上になります。中にはわたしが聞き誤ったものもあろうかと思いますが、交流を重ねているうちに自ずから判明するとみて、ゆるく聞き取るのが落合流です。

   ここからは、右の内容の一つ一つを落合の知見と照合して真相に迫ることとします。まず➀から。
 ➀十一年前(平成二十四=2012年)の2月25日に天啓を受けて全地球的一大事の到来を覚った博一さんは、翌2013年8月31日にも同様のことを経験し、以来十一年間にわたり伏見宮家の謎を探究してきた。
 こ途について落合の所見を述べます。 

 平成二十三(2011)年に古希を迎えた落合は、佐伯祐三絵画の真贋問題を巡って調査を依頼された吉薗明子さんから家伝の「吉薗周蔵手記」を託されたのを機に知った元帥陸軍大将上原勇作・憲兵大尉甘粕正彦とハプスブルク大公家の密接な関係が日本及び世界の近現代史の根底と察し、その研究成果を月刊誌『ニューリーダー』と『月刊日本』に発表しておりましたが、折から旧知天童竺丸くから紹介された成甲書房の社主田中亮介氏から要請を受けて単行本を執筆することになりました。
 最初は経済関係を、次いで二冊目から歴史関係ということになり、平成二十三=2011)年の暮れから書き始めたのが『金融ワンワールド』で、発行は翌年四月になりました。落合が『金融ワンワールド』を執筆していた最中に博一さんは天啓を受けて「天変地異が近い」ことを知ったわけです。
 いよいよ歴史書を書き始めた落合が、タイトルを『明治維新の極秘計画』としたのは、元高松宮付舎人の國體奉公衆から、明治維新の要所たる京都学習院の実情について、すでに伝授を受け始めていたからです。
 折しも、常陸大宮市の陰陽神社に石造豼貅像を奉納した知人から、落合が依頼された碑文を刻した石碑が完成したので、豼貅像と併せた除幕式に出席した所、その夜に実に名状しがたい苦痛に見舞われ、ほうほうの体で東京に戻りました。

 原因は三十年來の腎臓結石の発作ですが、紀州の流寓先で療養するも間もなく発作が再発したので、和歌山医大病院に緊急入院したのが6月7日で、入院先で糖尿病と肝臓癌が見付かりました。
 まさに一病発して余病発覚すということですが、早期治療のお蔭をもちまして今日まで元気で仕事をしております。これ単なる偶然でなく「他生の縁」によるものと心得た落合は、入院中に大乗仏教に惹かれるようになりました。

 平成二十四年九月に退院した落合が、歴史書の第一作『明治維新の極秘計画』を脱稿したのは同年十月のことです。入院中に構想を練ったことと、すでに高松宮喜久子妃殿下から御付舎人を通じて明治維新に関する多くの國體秘事伝授を受けていたことから、極めて速く脱稿に至りました。落合の歴史研究が本格化したのは実のこの時です。
 本筋に戻ると、華頂博一さんが自らの出自伏見宮の秘密を調べ始めたのが平成二十四(2012)年ということで、12月25日の原因不明の発作で身体が動かなくなったことが機となった、とのことです。
 拙著『明治維新の極秘計画』の発行はこれに先立つ12月5日です。落合の國體史著作は前年の十二月に始まりましたが、経済界で名を知られていたことから、「最初はとにかく金融ものを書いてくれ」とのことで、一回分ずらして『金融うワンワールド』を出すことにしたのです。 

 要するに落合から丁度一年遅れて華頂博一さんが伏見宮の研究――すなわち國體史の研究を始めたわけですが、これを「歴史のシンクロニシティ(共時性)」といって差し支えないと思います。
 心理学者カール・ユング(1875~1961)が提唱した「共時性」は、「複数の出来事が意味的関連を呈しながら非因果的に同時に起きること」を意味しますが、落合史観では、右のうち「非因果的」を認めないのは、仏教の説く因縁果を信じるからです。つまり「結果」としての現象には必ず「原因」があり、両者は「縁によって結びつくのです。
 落合史観の源流は「吉薗周蔵日誌」高松宮妃殿下から伝授された國體秘事ですが、博一さんの伏見宮秘聞の源流は、祖父華頂博信王からの口伝と皇室から拝見を許された秘密文書ですから、まさに対応しながら並立しています。
 ちなみに、高松宮宣仁親王と華頂博信侯爵は同じ年(明治三十八=1905)年の生れですが、高松様が早生まれのため学年は一年異なり、高松様が海兵52期、海大34期なのに対し、博信侯爵は海兵53期、海大35期です。
 ご両人の関係は『高松宮日記』で伺うことができますが、高松宮は博信侯爵のことを「神経質」と評されています。
 ここからは有料領域で、➁以下の内容を落合の知見と照合して真相に迫ることとします。
 

ここから先は

2,098字

¥ 500

いただいたサポートはクリエイター活動の励みになります。