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〔138〕作霖強制下野と学良易幟の真相その2 文章を再度修正したので必ず再読してください。11/4

〔138〕張作霖強制下野と張学良易幟の真相2
 〔137〕で張学良の出自の見当がおおよそ付いたと思います。ということは、張作霖の下野は、本人の望むところでなくとも必ず実行さるべき筋合のものであった、ということです。
 本人が望むなら下野は穏便に行われますが、さもなくば強制的に断行さるべきこととなります。「穏便か断行か」は、表向き「父子」とされている作霖と学良の「真の関係」によって定まります。
 学良を張作霖の籍に入れたワンワールド國體の意向では、いずれ下野すべき運命の張作霖ですが、たとい穏便に下野するにせよ、これまでに多くの作敵行為を重ねてきた張作霖がすんなりと隠居するわけにいかないのは、自身が作ってきた怨敵の関係者が、作霖の安楽な余生を許さないからです。
 よって生き延びるならば「偽装死」しかない立場の作霖が、「学良と取引して影武者を使い」秘かに生きのびたこともあり得ますが、これだけの大作戦では死人を出すのは織り込み済みですから、その可能性はほとんどないと落合は観ています。
 張学良に関する今日の史家の通説は、「張作霖の嫡子として奉天軍閥の跡継ぎとなり、父を殺した日本軍に仇討するために、易幟を断行して蔣介石の軍門に下り国民党軍のNo2となるが、共産党の周恩来と結託して西安事件を起こし、国共合作を実現して日本軍と戦った」というものです。
 これがいかに皮相的で真相から遠いものか、兄姉はすでに理解されたことと思います。そもそも「父を殺した日本軍に仇討」と観ることが誤りで、ひいては「西安事変」の本質を誤解しているのです。
 大正十四(1925)年十月に起った「郭松齢の反乱」は、奉天軍の重鎮で張作霖の参謀長だった郭松齢が、主君に対して起こしたクーデタです。
 原因は、孫文の理想を心底に抱き作霖の「先軍主義」の変更を望んでいた郭松齢が同月、軍事視察のために日本を訪れたところ、張作霖の後ろ盾が日本政体と帝国陸軍であることを知り、日本と張作霖に対して反感を募らせたこと、と古野直也氏は著書で説明しています。

 第二次奉直戦争の時から北京の軍閥馮玉祥と通じていた郭松齢は、十一月二十三日に反張作霖の兵を起しますが、関東軍の支援を受けた張作霖に敗れて処刑されます。
 郭のクーデタの目的が「奉天政権を乗っ取り、国民党の政策を満洲で実現すること」と観ていた関東軍は「郭が満洲にソ連の勢力を誘致すれば日本の国防および満蒙政策にとってゆゆしき事態になる」ことを恐れたのです。
 奉天軍の巨頭として郭松齢とライバル関係にあり、クーデタの標的とされた楊宇霆は大連に逃げ込んで難を免れますが、郭がいなくなると東北第四軍団司令、安国軍大元帥府参謀長に就きます。
 昭和三(1928)年六月四日の「張作霖列車爆破事件」を機に、奉天軍閥の跡を巡って張学良と熾烈な権力闘争に入った楊宇霆は、同年十二月二十九日の「易幟」の直後、張学良に招かれた席で、同僚常蔭槐とともに「反逆罪」を名目に射殺されます。
 以上は史学界の通説ですが、事象の表面を撫ぜただけのものでの真相は、これとは異なります。
 そもそも郭松齢は孫文が東京で建てた「中国同盟会」の同志で、辛亥革命に際して奉天で蜂起を謀り、総督趙爾巽に仕える張作霖に鎮圧された経歴があります。
 その後、陸軍関係の学校を優秀な成績で卒業し、奉天に戻って都督府の参謀となった郭松齢は、中国陸軍大学の研究班で学び、大正=民国五(1916)年に北京講武堂の教官となります。
 大正八(1919)年に張作霖が東三省陸軍講武学堂を再建すると、戦術教官として迎えられた郭松齢に学んだ張学良は、その能力識見に敬意を抱き、卒業後に作霖が「旅長」にしてくれた「衛隊旅」の「参謀長兼第二団長」として郭を任用します。尊敬する恩師を直属部下にしたわけです。
 学良が率いる「衛隊旅」は、郭の訓練のお蔭で奉天派屈指の精鋭部隊になり、安徽派と直隷派が戦った「安直戦争」では直隷派に加担して大きな戦功を挙げ、郭は満洲でも匪賊討伐に成功して張作霖の信頼を得ます。
 大正=民国十(1921)年、奉天陸軍を拡充するに当り、学良を第三混成旅長に任じた作霖は、郭を第八混成旅長に抜擢し、第三混成旅と第八混成旅の司令部を連合させて、その指揮を事実上郭に委ねます。
 翌年の大正=民国十一(1922)年に勃発した奉天派と直隷派の「第一次奉直戦争」では、大敗して混乱する奉天軍の中で、第三混成旅と第八混成旅だけが善戦し、整然として撤退します。

 このように奉天軍の中でも抜群の功績を挙げた郭を、新設した「陸軍整理処」の参謀長学良を補佐する参謀長代理に任命した作霖ですが、この時郭が具申した「民力の暫時休養と内政近代化」は斥けました。
 こうしてみると、軍人として極めて有能で、しかも近代思想を理解して相当の経世策を抱いていた郭松齢が、敢えてクーデタを起こした目的は、張作霖の「インフラ拡充を行わずひたすら軍拡路線を進む先軍主義」を、孫文流の民生主義すなわち「内政の近代化」に切り替えることと観るべきですが、郭松齢ほどの軍略家が、かくもあっさりとクーデタに失敗したのは何故でしょうか。
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