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〔135〕張作霖列車爆破の真相

〔135〕張作霖列車爆破の真相(続き)
 張作霖列車爆破についてあらかた結論に達し、それを述べようとして前項〔134〕を書き始めた落合が、たまたま電話していた國體舎人に、ふとその事を告げた処、「そもそも張作霖があの列車に乗っていたかも含めて再検討しなければ」の一言が返ってきたのです。
 その時は「張作霖列車爆破の謀主については諸説あるが、「作霖の死去に間違いはなし」との立場だった落合は、ともかく〔134〕を進めながら考え直すことにしました。
 そこで初めて読んだ加藤康男氏の『謎解き「張作霖爆殺事件」』に納得した落合は、従来の説を改め、ソ連諜報機関の犯行説に転向したのです。
 その時まで「張作霖爆殺の謀主はワンワールド國體隷下の《大東社》であり、その指示を受けた関東軍の一部軍人が実行した」との説を立てていた落合は今回、加藤説の後半部の「その指示を受けた」から後を「ソ連の諜報機関が実行し関東軍の一部軍人がアリバイ作りをした」と変更しました。

 つまり「関東軍の単独実行説」を「ソ連と河本大佐の共同謀議説」に置き換え「ソ連側が実行を、河本がアリバイ作りを分担した」としたのですが、 ここから生じる課題は、「ソ連と関東軍の共同謀議」の実態を明らかにする
です。

 実は、落合には予てから知りたいことがありました。それは「国際共産主義者がロシア革命を成就したソ連で、一国共産主義を唱えるスターリンが、国際共産主義者を殺害・国外追放して、ソ連共産党を「国際共産党」から「國體共産党」に転化させることができた背景です。
 世間がスターリン体制のソ連に「コミンテルン」すなわちコミュニスト・インターナショナルの名称を用いるのは、国際共産党から國體共産党への転化」の意味を覚らないからに他なりません。この状態が生じたのは、ほとんどの史家が「國體勢力の実在」を覚らず、「國體史観」を理解していないからであります(國體史観については拙著『日本教の聖者西郷隆盛と天皇制社会主義』で述べましたので、ここは割愛します)。
 スターリンが國體の隷下に在ったことは彼の事績が示す所ですが、本来國體派であったスターリンが国際共産主義者に潜入したのか、国際共産主義者の中にいたスターリンに狙いを付けて転向させたのか、そのあたりの詮議はここでは辞めておきます。
 ともかくレーニン一派を追放したスターリンが、國體共産主義国家としてのソ連邦を固めるに際し、日本から招いたのが後藤新平です。義父安場保和が創った玄洋社の対露工作機関たる黒龍会の最高幹部としてロシア問題を担った後藤新平は、日露戦争後の満鉄総裁時代に帝政ロシアとの関係を深め、ロシア革命後の大正十二(1923)年に、革命政権の一つチタ共和国の外相アドリフ・ヨッフェを日本に招待します。
 後藤新平の依頼を受けた大杉栄が、革命政権の外務大臣として北京駐在中のアドリフ・ヨッフェに招待状を持参した一件を明らかにしたのは矢次一夫の『政変昭和秘史(上)』の一行です。
 落合はこの一行から「大杉栄が後藤新平配下の諜報員であった」ことを明らかにしましたが、その詳細を知りたい方は、た拙著『國體志士大杉栄と大東社員甘粕正彦の対発生』をお読み下さい。

 大正十二(1923)年、来日したヨッフェは東京市長後藤新平と会見して日ソ外交正常化の糸口を作り、以後は後藤新平と玄洋社の内田良平が日ソ交流の奥底を握ることになります。昭和二年暮れから三年春にかけて、スターリンの招きを受けてソ連に赴いた後藤を、スターリンが国賓として待遇したのは、「ワンワールド國體の指示によるもの」と落合は推察します。
 後藤は、四か月後に少年団日本連盟(日本ボーイスカウト)会長として再度ソ連を訪問するのは、スターリンと密談するためです。この会談の内容は不明ですが、予てよりアメリカを「将来の日本の敵」と見抜き「新旧大陸対峙論」を唱えていた後藤はスターリンに、「日露支の結合」を呼びかけたと思われますが、「満洲を委任統治とすること」ないし「満洲を日露の緩衝地帯とすること」を提案したと見る向きもあるようです。

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