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李鴻章が辛亥革命の下準備 12/4

〔99〕辛亥革命の準備をした李鴻章 
 李鴻章は久邇宮朝彦親王の一歳上で、朝彦親王より一〇年長生きしは明治三十四(一九〇一)年に逝去した。両人は同時代人で、やや年長の井伊直弼とともに世界史に影響をもたらした重要人物である。
 朝彦親王が徳川慶喜とともに明治維新の中心人物であったことが知られていないのは、日本近代史の大きな欠点たる「薩長史観」の影響であるが、詳細はここでは措く。
 李鴻章については、日清戦役の講和談判で全権大使として来日し下関条約を締結したことが日本でも広く知られている。若くして進士となり太平天国の乱鎮定の大功で直隷総督・北洋大臣となった李鴻章は、洋務運動を推進した開明的性格の人物であった。
 李鴻章の事績で日本に関係するのは、まず明治七年の台湾出兵事件を解決したことで、これにより琉球の日本帰属が決定し、台湾島が清朝にとって化外の地ということも明らかにされた。
 明治十(一八七七)年に伊達宗城・柳原前光ら日本使節団との間で対等且つ平等条約の日清修好条規を締結した事、及び明治二十八(一八九五)年に日清戦役の講和談判で下関条約締結した事が李鴻章の重要な事績である。
 その他の事績は枚挙にいとまがないため割愛するが、洋務運動に加わり西洋事情に通じていため、柔軟な外交で実績を上げたことは特筆に値する。アヘン戦争以来、英国を仮想敵国とする海防派とロシアを仮想敵国とする塞防派が対立し、前者の代表が北洋大臣李鴻章、後者の代表が南洋大臣左宗棠であった。
 日清戦争で李鴻章隷下の北洋艦隊が日本に惨敗したことで苦境に立った李鴻章が、重い処分を免れたのは、西太后の寵臣であったからである。
 明治二十九(一八九六)年にロシア皇帝ニコライⅡ世の戴冠式に出席した  李鴻章は、外務大臣アレクセイ・ロバノフおよび財務大臣セルゲイ・ヴィッテと秘密に会談して露清密約を結び、日本の脅威に対抗するための安全保障を名目に、満洲における東清鉄道の敷設権や鉄道付属地の管理権を得たが、その際李鴻章はロシア側から五〇万ルーブルの賄賂を受け取ったことが知られている。
 因みに、この賄賂の事を初めて知った時、「李鴻章は漢族ゆえに満洲の地を実質的にロシアへ売った」と判断し大の奸物として李鴻章を憎んだ白頭狸が、その後に友人となった北京大学歴史系主任教授劉俊文さんに質したところ、「李鴻章は日本に満洲を奪われることを防ぐためにロシアと結んだ」とのことで、愛新覚羅氏あるいは西太后の意を受けていたものと理解した。
 露清密約で李鴻章がロシアに傾いたのは、前年の日清戦役の講和談判で日本から遼東半島と台湾島の割譲を要求されて一旦承諾した李鴻章が、露独仏の三国干渉によって遼東半島の返還を受けたことの見返りであった。
 遼東半島の日本への割譲がワンワールド國體の方針に反していたことは、下関会談において外務大臣陸奥宗光の宿舎へ、杉山茂丸が連日押しかけて、割譲要求を撤回させようとしたことが何よりの証拠なのは、杉山がワンワールド國體の実行団たる大東社の日本本部長であったからである。
 そもそも日清戦役は、開国したばかりの大日本帝国を国際政治の舞台にデヴュ-させるために、ワンワールド國體が図ったもので、西太后が北洋艦隊拡充の予算を頤和園の増設に振り向けたのは、その事情をよく承知していて清国海軍の弱体化を図ったのであるから、北洋艦隊の総司令官であった李鴻章にとってはさぞ無念であった筈である。
 東清鉄道はシベリア鉄道の支線で、満洲里から綏芬河まで清国領内を通過するうえ、鉄道付属地の行政権もロシア側が握ったから、満洲はこの時からロシアに事実上明け渡した結果となり、後年の日露戦争の重要な一因となったのである。
 狸思うに、そもそも李鴻章が如何に大官であっても、愛新覚羅氏の故地たる満洲をロシアに事実上売り飛ばすなどは慮外のことで、露清密約は西太后および醇親王が李鴻章に命じたことは、情理上明らかである。
 西太后は、前の北洋艦隊の予算流用による弱体化の慰謝料に、露清密約締結の報酬として、李鴻章にロシアからの収賄を承認したものとみれば筋が通るのである。
 ニコライⅡ世の戴冠式の後、欧米を一周し、列強首脳と対面して半年後に帰国した李鴻章は総理衙門大臣の重職に就き、明治三十一(一八九八)年から「戊戌の変法」に乗り出した光緒帝によって罷免されるが、西太后の巻き返しで復権し、明治三十三(一九〇〇)年の義和団事件で直隷総督・北洋大臣に復職したが、翌年に病死した。
 李鴻章の後任として、その職を継いだのが袁世凱である。

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