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竹下登の大仕事 8月17日

〔58〕落合莞爾の小仕事2    8月17日
 承前
 治則くんが逝去したのは平成十七(二〇〇五)年のことである。その報せを知人の記者から受けた時、わたしは和歌山で老父母の家財を整理していたが、東京にいた元秘書が遺族に問い合わせたところ、前夜サウナに行き帰った後に斃れたとの事で、後で知った死因は蜘蛛膜下出血であった。
 三年後の二〇〇八(平成二十)年にアメリカでサブプライム・ローン問題が発生したが、その際にモノラインを扱っていた保険会社AⅠGが驚異的な赤字を出した。背後に莫大な債務があるのは言うまでもないから、これでようやくノリちゃんの記録が破られた、と感じたことをわたしは今も覚えている。
 AⅠGは個人会社ではない(だろう)から、個人事業家の治則君と比べるのはおかしいのだが、あの時にそう感じた理由を忘れてしまった。あるいは、この倒産は個人的な要素が強かったのだろうか。
 因みに〔57〕の見出しを「落合莞爾の小仕事」としたのは、昭和五十七(一九八二)年正月に治則くんと約束して一緒に走りだしたが、昭和六十(一九八五)年のプラザ合意を境に、とてもついていけなくなって巷の小投資家に転落したわたしこと落合莞爾の自嘲をあらわしたのである。
 治則君の進める大胆な不動産投資にわたしがついていけなかったのは、プラザ合意のあと突如始まったバブル経済の本質を、当時は理解できなかったからである。
 プラザ合意の目的は、今にして思えば「世界に散らばった米ドルの管理体制を作ること」で、さらに「その体制の責任者を日本に委嘱すること」であったと聞くが、これを明確に指摘した学者ないし評論家はこれまでいただろうか?
 さて、プラザ合意で決められた役割に就いた日本が「世界中の漂流米ドルを日本に集めようとした」ために発生したのが、プラザ合意後の日本に発生した「バブル景気」である。
 バブル景気とは、普通は好景気を指す一般的呼称であるが、ここでは昭和六十一(一九八六)年に始まり平成三(一九九一)年二月までの五一カ月間に日本で起こった資産価格の高騰とこれに伴って生じた社会現象をいい、根拠は当時の総理府が作成していた「景気動向指数」である。
 株価や不動産価格の上昇から一般人が実感したバブル景気は、昭和六十三(一九八八)年初めから平成四(一九九二)年二月ころまでの約四年間と言われる。
 この間の重大な現象は、昭和六十二(一八八七)年十月十九日に起ったアメリカの株価下落いわゆるブラックマンデーと、四年後の平成三(一九九一)年十二月二十九日に示現した日経平均株価の大天井で
ある。これが日本の「バブル景気時代」の始期と終期を成すが、ともに右の定義から数か月遅れているのは「慣性の法則」によるものであろう。
 ブラックマンデーは前日の香港市場における大暴落に端を発したもので、米国ダウは二二・六%という過去最大の下げ率を示現したが、これを受けて翌日、世界各国でも株価が暴落した。
 米・西独および日本の中央銀行は恐慌の到来を防ぐため金融を緩和して流動性を供給したが、ブラックマンデーの暴落は証券界が揺らいだだけで実体経済に与えた影響は軽微で、この点において世界恐慌をもたらした一九二九年の大暴落とはまったく異なっていた。
ブラックマンデーを契機にして、日本円をはじめ、ドイツマルク・イギリスポンド・スウ―デンクローネが一気に国際通貨となり、各国の機関投資家にこれらを取得する必要が生じた。
 折しも、ブラックマンデーの三日前に米軍の護衛するタンカーに対するイラン軍のミサイル攻撃があり、原油市場では不安心理が炎上した。
 香港市場に端を発したブラックマンデーには必ず仕掛け人がいた筈だが、その正体が今日でも判らないため、誰言うとなく「石油消費国のリスクが顕在した」としてごまかしているが、注目すべきは、ブラックマンデーの二カ月前にアラン・グリーンスパンがFRBの議長に就任した事である。のちにアメリカの住宅金融バブルを起したグリーンスパンは、「国際金融連合の指示を受けて」それをしたことを告白した。
 昭和四十六(一九七一)年七月、佐藤栄作内閣の官房長官として初入閣した後、大平内閣の大蔵大臣に就き、中曽根内閣で四期連続して蔵相を勤め、プラザ合意に出席した竹下登が、日本国の内閣総理大臣に就いたのがブラックマンデーの二週間後の昭和六十二(一九八七)年十一月六日で、就任早々に出した指令は、ニューヨーク市場に対する救済支援であった。
 以上のことから洞察すれば、ブラックマンデーの本質は「プラザ合意を実行する上での一工程であった」とみるのが最も合理的ではないか(続く)。

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