見出し画像

竹下登薨去のあとさき 9/30

〔59〕竹下登薨去のあとさき
 正二位大勲位竹下登の薨去は、公式には平成十二(2000)年六月十九日とされているが、わたしが知るところでは平成十一(1999)年四月五日あるいはその翌日である。
 藤井厳喜くんが毎月送ってくれる『ケンブリッジ・フォアキャスト・リポート』の一九九九年一月号(か二月号?)に刺激的な記事があった。もう二三年も前のことで記憶は定かでないが、その記事から始まる一連の事件を、うろ覚えのままに語っていこうと思う。
 記事の梗概は「竹下登はCIAにより毒を飼われて倒れ、埼玉大学附属病院に入院中。この病院は福永健司が建てたもので、自民党政治家が入院することが多い」とのことであった。
 吉田茂側近としてサンフランシスコ会議に出席した福永健司は、内閣官房長官のほか各大臣を歴任し、さらには衆院議長に就いて従二位勲一等旭日桐花大綬章を受けたが、わが郷土和歌山県かつらぎ町出身と聞いていた。
 そこで調べたところ、滋賀県甲賀郡甲賀町出身で旧制和歌山県立伊都中学から松江高校、東京帝大を経て片倉紡績に入社し、戦後衆院議員になった。
 それで思い出したのは昭和五十年代に日経新聞の「私の履歴書」で、福永健司が「私は甲賀忍者の頭領の家に生まれ、一族の慣習に従って紀州高野口の同族の家に預けられて地元の伊都中学に通った、と語っていたことである。
 その時は見流したが頭のどこかに引っ掛かっていたその事が、平成に入って歴史研究を始めるとジワリと浮かび上がってきたのは、甲賀忍者が真田氏の隷下にあったことを知ったからで、甲賀者の頭領福永氏の同族が高野口あたりにいたことはこの地域が真田氏の隠れた所領だったことを意味する、と考えたのである。
 そこで歴史学の定説を概観してみたが、真田氏と高野口については、「関ヶ原で西軍に与して敗れた真田幸村が高野口に隣接する九度山に配流されたが、大坂夏の陣で敗死した」というだけである。
 異聞として「家康と幸村に密約があって、幸村は生き延び、仙台で隠れ所領十万石を与えられた」との説あり、深く調べてみると甚だ面白いがここでは省略する。
 その内に紀州家お抱えの忍者で、三大忍法書の一たる『正忍記』の著者名取三十郎正澄が諏訪氏の軍師山本勘助所縁の真田忍者と判ったのは、名取家の菩提寺恵雲寺に外国研究者から問い合わせがあったからである。紀州家に招かれた名取三十郎は城下居住を辞して高野口の大野に住んだのは忍術精進のための便宜を図った、というのは表向きで、この地に在住する真田忍者衆に加わったのである。
 現地に出張して教育委員会に尋ねたところ、福永健司の父は営林署の職員として当地に来住したといい、本人の語る所と異なるが、まあ良い、戸籍ロンダリングも忍法の一つであるから。
 かれこれ、高野山麓が真田氏の隠れ所領であることは間違いないなく、とすると天野山で水銀を採取していた丹生族との関係が窺われ、往時の空海の高野山開基にも関係してくる。
 このことが契機となり真田氏・伊達氏など國體武家衆の存在を知ったわたしが、高松宮妃殿下から時折賜る國體秘史伝授に照らしながら建てたのが國體日本史に関する洞察史観である。
 以来わたしが、埼玉医大付属病院を遠目でみながら竹下登氏の動向を観察していたのには理由があった。
 平成二年、わたしは友人たちと南紀徳川家から引き取った支那・朝鮮の古陶磁を管理するため紀州文化振興会を創り、関係図鑑などを発刊していたところ、岸和田市から市制施行七十周年記念の展覧会に利用させてほしいとの申し出があり快諾したところ、朝日新聞をはじめとするマスコミや、高麗美術館などからわけのわからない妨害を受けた。
 自分なりに探索した所、妨害活動の謀主は大徳寺周辺と見当が付いたが、岸和田市長を自在に操るとなればかなりの政治家が関与している筈で、それも追究していくと竹下登と後藤田正晴と察せられた。
 こんな大物相手では、天下の素浪人に為す術はないので、雌伏して時期を待っていたら、平成十一年になってケンブリッジ・フォアキャスト・グループの竹下情報に接したのである。
 親交があった水谷民彦さん(ダイエー最高顧問)から次のように言ってきたのである。「落合さん、あの焼物を売るつもりがあるかい? その気なら紹介するよ」と言い、有名な古美術店の名を上げてきたので、わたしは次のように答えた。
 「そのお話は有難い。わたしも老境なのでそろそろ処分したいが、この件では反対派がいていろんな妨害を仕掛けてくるのです。その親玉が竹下さんで、このお話も必ず竹下さんに潰される。竹下さんは病気らしいから死ぬまで待つことにするよ」
 「オッケー。判ったよ。それなら気が変わったら言ってきてね」
ということになった。
このような経緯で、わたしは竹下さんの病状を遠隔監視していたのである。
三月二十八日だったと思うが、水谷さんを帯同して馬野周二先生のお宅へ伺った。雑談中に掛かってきた電話に出た馬野先生は、終ってから、次のように言った。
「竹下は重病らしい。今の電話は国土庁長官の亀井久興さんからだが、県知事選の旗揚げに出るために島根へ行った帰り、空港で竹下先生と一緒になったら、自力でタラップを登れない状態だった。
東京へ戻ってからお見舞いに行こうと思い事務所に電話したら、お断りされた。入院したようだ、とのことです」
入院先は埼玉医大付属病院との見当をつけたわたしは、諜報の網を広げた。

勧進 南光房は托鉢をしております。月末に当り、読者各位は一銭の御芳志を賜りますようお願い申し上げます。

いただいたサポートはクリエイター活動の励みになります。