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【エッセイ】秋の日暮

 スーパーマーケットで秋刀魚の初売りを見かけると、
ああそろそろ衣替えの季節が来るかと、
外の風の冷たさと早い日暮れが身に迫ってきて
帰宅して納戸を開けてさて何をどこへ仕舞っていたかと
探しているうちに、時間がかかればかかるほど、
つい急がないものまで見つけてしまう。
 ああ、これは妹が昨年置いていった麦酒だと、
あれは秋だったか、残して行ってしまったなあいつは、と
飲もうか飲むまいか気持ちが急いているのに手が止まっている。
 ハロウィンの飾り付けをしていると
いい歳をしてお祭り好きだと、妹はよくからかっていたが、
そのハロウィンもコロナ禍で盛り上がりに欠けるというのか
尻すぼみになったというのか、一旦落ち着いたというところか。
 それでも秋は来る。
 ハロウィンの前は神社の秋祭りだった。
 浴衣を着ているのは圧倒的に就学時前の女の子が多く、
親が化粧を施しているのではないかと思える程顔の色が華やいで、
そのまた時の遡った頃では親も子供も下駄を履いていた。
 昭和の頃だ。
 団扇はないが綿飴やおでん、ポップコーンの香ばしい香りが道路まで漂い
人の声や祭囃子が聞こえて来ると何だか体が温まってくるようで、
少し寒くなりかけた季節の熱気やはしゃぎ声、
食べ物の匂いが秋の祭りだった。

 妹は浴衣や着物が好きだった。
 好きだったといっても着付けを習っていたわけでも
正月を着物で迎えるということもなく、
TVの時代劇ドラマを見ると胸騒ぎでもしてくるのであろう、
子供の頃はすぐに母親へ浴衣を箪笥から出すようせがみ、
この忙しいのに、と母は愚痴りながら防虫剤の匂いのきつい浴衣を出すと
それを着て妹は嬉しそうに鏡の前でくるくる回り
悦に入り、機嫌が良くなる。
 箪笥の前で疲れた笑顔を見せていた母も
季節外れの浴衣姿を見ているうちに段々と口数も多くなる。
 成人式の振袖姿の写真もあるが、
浴衣の時も下駄を履いて祭りへ出掛けていたのだろう。

 今は見ると皆がスニーカーやサンダルを履いている。
 別に下駄に思い入れが格別ある訳ではないが、
履いている年端のいかない女の子が少ないと
慣れと新しさの只中にいる、と
わくわくするようでそわそわするようで足が止まる。
 昨年の子供達は今年もいるだろうか。
 身長は伸びているのだろう、女の子はすぐに大人びてくる。
 初めて見る子供達はいないだろうか、と見守る親御達が交わす
季節の挨拶に耳を傾ける。

 もしやあいつの下駄などは、とまた寄り道をしながら
残した麦酒を冷蔵庫に入れて、後でなどとしながら
厚いコートを出してはもう少し薄くて暖かいコートが良かろうか、など
考え出したり袖を通したりしているうちに時間が経っているのに気付く。

 ああ今日も一日片付かぬ、何がどうしていう訳はあるのだろうが
何も進まぬと嘆息し、日暮れと共に力抜けし、
寒さに身を縮めながら妹が置いていったものは、と他に探すのも
暮れていく秋の夜長が許してくれるか。
 それとも楽しませてくれるものか。
 はたまた秋の祭囃子が呆れているか、苦笑しているか。

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