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東北大学「有象無象」オープンキャンパス2023

 公認の枠組みからは外れて何やら怪しげなことを行なう「有象無象」。それはあらゆるところにいて、東北大学も例外ではありません。しかし、その「有象無象」の活動はあまり知られておらず、語り継がれることなく忘れ去られてしまうこともしばしば……。そんな「有象無象」にスポットライトを当てるべく、この春、東北大学「有象無象」有志による新歓グループが発足されました。

 今回はオープンキャンパス特別号。オープンキャンパス(以下、OC)にまつわる「有象無象」をご紹介します。普段の記事はインタビューの書き起こし形式ですが、今回は「有象無象」本人が本文すべてを書いています。OCのとき、各学部でお試し講義みたいなのやってますよね。アレみたいなことです。

 今回ご紹介するのは東北大学〈焼き畑〉コース・コース長が去年のOCで展開した「ニセオープンキャンパス闘争」です。当時は東北大学アナーキズム研究会・会長を名乗っていた現〈焼き畑〉コース長は、OCに合わせて、キャンパスにビラを貼りまくりました。

 OCでも「有象無象」名義で何か出すことにしたのは昨日(OC初日)の朝なのですが、〈焼き畑〉コース長の熱いパッションにより、それでも5,000字くらいあります!


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 こんにちは。東北大学〈焼き畑〉コース・コース長です。日々キャンパスへの嫌がらせを真面目に試行錯誤しています。嫌がらせの一環として、「有象無象」インタビューに参加して議論を白熱させ、それを記事として公開させることで、読んだ学生たちの心を揺さぶり、彼ら彼女らの不満を野蛮に表出させようとしています。
 なぜそんなことをしているのかは追々わかったりわからなかったりすると思うのでひとまず脇に置いておいて、さっそく「ニセオープンキャンパス闘争」についてお話ししたいと思います。
 「ニセOC闘争」については、以前、横浜国立大学都市社会××学科・学科長との対談でも話したので、興味があればそちらもお読みください。

「ニセオープンキャンパス闘争」

 去年(2022年)、7月26日・27日に開催されたオープンキャンパスの際に、大学が作ったOC宣伝ポスターのパロディとしてニセOC宣伝ビラを作り、友人と一緒に川内キャンパスの掲示板やらベンチやらに貼りまくりました。

掲示板①
掲示板②
厚生会館前のベンチみたいな石(本文では単に「ベンチ」)
画像はないが、談話室前のテーブルや椅子にも貼ったし、
覚えていないがほかにもいろいろなところに貼ったと思う

画像に写っている白い紙が元の宣伝ポスターで、黒い紙が私の作ったパロディビラです。OCに合わせて掲示板のビラが一掃され、元の宣伝ポスターまでなくなっていたので(元から貼っていなかったような気もしますが)、それもわれわれが新たに貼りました。せっかくのパロディなのに、元ネタがわからなかったらもったいないですからね。

大学の正規の宣伝ポスター
キレイ!! 清潔感がある!!
パロディビラ
怪しい!! 不快感を与える!!

 シンプルながら出来がいいので、印刷する前のビラのデータを見たある友人は、私がそれがパロディビラであることを教えるまで、そのことに気づきませんでした。しかし、その出来の良さは、そのまま元ネタと並べて貼るだけでは正規のビラと同じものとして見逃されてしまうという弱点を抱えてもいます。だから、野蛮な貼り方によって正規のビラではないことが一目でわかるようにしておく必要があったのです。しかし、野蛮な貼り方は、そのような必要性から仕方なく導かれた戦術ではなく、あるいはそうである以上に、それ自体が不満の表現だったのです。

 前述の都社破との対談でも指摘されていますが、大学や社会に関する問題について意見を表明するとかでもないのに、OCに対抗するなんて、意味がわからないわけです。実際そこに確たる「問題意識」はありませんでした。ただ、キャンパスという空間が不愉快だから、そこに亀裂を入れようと思っただけです。

不満を「政治問題」化していく

 まあ、しかし、一応後付けの大義名分はあります。そして、後付けでもなんでも大義名分があることは重要です。〝間違った〟意味不明の不満を〝正当化〟することは、その不満は俺一人が我慢していればいいようなものではなくて、ある種の「政治問題」なんだ、と言い募ることを可能にします。「ここには何もありません!」と言って俺の不満を存在しないものとするキャンパスに対しては、ここには俺とその不満があるということを宣言する必要があり、その不満を〝間違った〟不満として黙殺させないために、それが係争に値する「問題」であるということも同時に宣言する必要があります。

 さて、この「ニセOC闘争」における大義名分とは何でしょうか。それは大きく分けて二つあります。

 一つは、「事前予約抽選制」批判です。今年の東北大OCにはそういう制限はないようですが、去年は「事前予約抽選制」なるものによってOCへの参加が制限されていました。つまり、事前予約を求めたうえで、実際に参加できるかどうかは運次第だったわけです。実際に定員を超える応募があって抽選が行なわれたのかは知りませんが、これは「来たかったのに来れない人」が存在しうるシステムです。それに対する批判として、ビラにも「大学当局と違って事前予約不要」「『事前予約抽選制』などといって学生諸君を無下にする東北大学当局と違って、我々教養学部は来るものをとりあえずは拒まない」と書いています。
 ちなみに、「東北大学教養学部」と書いていますが、現在の東北大学に「教養学部」という学部は存在しません(かつては「教養部」という名前で存在したようです)。私は「教養学/部」と区切って、「学部みたいな名前の部活」という設定でビラを書きました。嘘じゃないけど、人を騙すみたいなことをやっていたわけです。嘘を書いていいならなんでもアリになってしまいますから、そこの線引きは割と意識しています。「事前予約抽選制」だって、別に東北大のOCなんて面白いものでもなんでもないのだから、それに制限がかかろうがどうでもいいわけで、その意味では「思ってもいないこと」を言っているわけですが、「なんで来ようとしている学生を選別できると思ってるんだよ」という反感はありましたし、「嘘」ではないわけです。ハッタリと呼んでいただきたい。何が嘘で何がそうでないかなんてどうでもいいのですが。

「きれいなキャンパス」批判

 もう一つの大義名分は、「きれいなキャンパス」批判です。これについては、当時もう一枚作ろうと思っていたビラの文案を見てみましょう。当時の私などとは比べ物にならないほど洗練された今の私が見ても良い文章だと思います。

大学当局は「きれいなキャンパス」を学生諸君に見せようと掲示板のビラを撤去してしまったが、学生諸君が本当に知りたいのは「いつものキャンパス」の姿ではないのか。我々は学生の切なる願望を正しく察し、これらのビラを貼ることで〝あるべき〟「いつものキャンパス」を再現した。

大学は、これから「キャンパスライフという商品」を「お買い上げ」くださる「受験生というお客様」に対し、「きれいなキャンパス」を演出しようとします。テキトー言えば、マンションの広告みたいなものです。しかし、当然ながら、マンションの広告で描かれるような生活は、そこに住んでいる人の「いつものマンションライフ」とは違うわけですよね。しかし、不動産会社はその生活感がない「きれいなマンションライフ」こそが「いつものマンションライフ」であると主張します。マンションの話はこのくらいにしましょう。それは資本の論理で動いているのだから、そうなるのは必然です。その「必然」を問うこともできますが、私は反資本主義と言う意味での左翼では必ずしもないし、いずれにせよここで語るべき内容とは思わないのでスルーします。
 問題は、本来そのような資本の論理を採用しなくてもいい(ということになっているはず)の大学がそのような資本の論理で駆動していることです。断っておけば、私は、資本の論理で動く大学に対して「古き良き」大学の再建を主張しようとは思いません。私は、資本の論理が私を黙らせようと、あるいは私の不満を黙殺しようとしていることを批判したいのです。

 オープンキャンパスは「住宅展示場」みたいなもので、「きれいなキャンパス」の最も顕著な表れではありますが、「お客様」が「商品」を選ぶときに参照するイメージは住宅展示場のものだけではありません。それが意図的に「きれいに」演出されているものだということは「お客様」の側もわかっています。そこで、資本の論理を採用した大学は、「いつものキャンパス」もきれいだと示さなければならなくなる。「いつものキャンパス」を「きれいなキャンパス」にしておく必要があるのです。
 ここに、「きれい」でないものを排除しようとする力学が生まれます。「いつものキャンパス」というのは自然なあり方ではなく、大学が意識的に生み出した作為の結果なのです。そして、その作為のなかで「いつもきれいなキャンパス」に相応しくないとされたものは、それが理由で排除される。つまり、それ以上の理由はありません。「学生のみなさんが政治団体や宗教団体にひっかからないように」などというのは「きれい」でないビラを排除するための方便であり、「きれい」でないものの名前が「政治団体や宗教団体」、実際によく使われる表現を使えば「非公認団体」なのです。いわゆる「政治団体」や「宗教団体」が危険ではないという話はしていませんよ。そのような形式的な物言いのなかで暗に進められている排除があるという話です。

 さきに挙げた「文案」に戻りましょう。一年前の私はここで「〝あるべき〟『いつものキャンパス』を再現」すると書いています。単に「お客様としての受験生」に対して「商品選択」のために「いつものキャンパス」という適切な情報を示したいと思うのであれば、われわれには何もすべきことはありません。「いつものキャンパス」とは大学が「きれいなキャンパス」を演出しようとした作為の結果だからです。OCに来た学生が目にする「きれいなキャンパス」は事実「いつものキャンパス」であるわけです。
 一年前の私は、野蛮にビラが貼ってあるような状態は、現実の「いつものキャンパス」ではなく、そのような作為がなければ排除されることのなかったはずのものが存在している〝理想の〟「いつものキャンパス」であるというハッタリのために、「〝あるべき〟」と言わなければならなかったのです。そしてそのような必要性があったという以上に、「べき」という規範的な物言いによって、「いつものキャンパス」をこのような野蛮なものにしていこうという指針を提示していたわけです。

 しかし、〝あるべき〟「いつものキャンパス」、〝理想の〟「いつものキャンパス」とは本当に望ましいものなのでしょうか(その疑念が私にクオーテーションマークもどきの記号をつけさせています)。おそらく「きれいなキャンパス」に向けた大学の作為がなければ、掲示板にはどうでもいい学生のおふざけが溢れていたことでしょう。少なくとも私は学生のおふざけのために掲示板を奪回したいとは思いません。規制されてそれにおとなしく従っているような連中のための「自由」など必要なんでしょうか。
 
ここで問われているのは、学生のおふざけがおふざけにすぎないことではありません。規制に従っていることを恥もしないような連中に新たに「自由」を認めてやる必要があるのかということです。規制に従っちゃうような学生連中に「自由」を与えたら、「オレたちの自由のために迷惑なアイツらを排除しろ」と言って、俺を排除することは明白です。そういう学生と大学との共犯関係によって排除されているモノがあるのです。翻って、規制されているにもかかわらずそれを破って出てくるモノがあるわけですが、そこにはすでに自由があるのではないでしょうか。自由の名に相応しいのは、与えられる権利それ自体ではなく、与えられていない〝間違った〟「権利」の行使ではないでしょうか。

結び

 そろそろ結びに入りたいと思いますが、その前に、せっかくですから「ニセOC闘争」の具体的なシーンをいくつか記述しておきたいと思います。

 「ニセOC闘争」の日は今年のOCと同様ひどく暑く、野蛮にビラを貼って「ニセOC」の開催を宣言したはいいものの、宣言したような「ニセOC」そのものはできませんでした。しかし、もう少し当時の私が元気であれば、「ニセ誘導看板」を立てて、交流会でもしようかと思っていました。矢印と学部名が書いてある大学の正規の看板のなかに、段ボールで作った「教養学部」に誘導する看板を紛れ込ませておき、「きれいなキャンパス」にうんざりしてやって来た受験生と交流しようかと思っていました。勝手に誘導看板を作るのは面白いと思うので、タフネスとパッションとほんの少しの勇気を持った誰か、ぜひやってみてください。

 私はのちに一人で掲示板を占拠するほどのビラを貼ることになるわけですが、「ニセOC闘争」のときは、何人かの友人と一緒にビラを貼りました。OC初日にビラを貼ったら、案の定その日のうちに剥がされ、それを受けて、当時人を集めていたDiscordサーバーで新たにビラを貼りに行くことを呼びかけました。薄情なことに東北大生は誰も参加してくれませんでしたが、そのとき偶然仙台に遊びに来ていた友人が手伝ってくれました。これが友情ですね。

 冒頭で挙げた写真にもあるようにベンチにもパロディビラを貼りました。当時雨の予報が出ていたのだったかは忘れてしまいましたが、とにかく雨対策のために100均で買った薄いクリアファイルを使いました。雨でぐしゃぐしゃになったビラがベンチにあるのも学生どもを不快にできていいかなと思ったのですが。とにかくラミネートする手間をかけずに安く防水ができるので、目的・手段によって使ってみてもいいでしょう。

 結びに。この一、二年、大いに私のはたらきによるところもあって、大学に不穏なビラが少しずつ増えてきていると思います。「いつものキャンパス」が必ずしも「きれいな」ものではなくなってきているわけです。「きれいなキャンパス」にビラを貼るのは多少勇気がいるかもしれませんが、それだって大したことはないわけで、しかもそのハードルがさらに下がってきているわけです。要求される勇気がここまで小さくなってなお、ビラの一枚も貼らないようでは、怠慢の誹りを免れません。怠慢なあなたに隠された不満を見出し、その表出を迫るほど私もお節介ではないのでこれ以上のことは言いませんが、いまここですでに可能なモノがあるとだけは、あまりに当然のことながらお伝えしておきます。

(おわり)

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