しずくだうみの闇ポップ講座(11)

音と音楽について

●テキスト/しずくだうみ

 イヤフォンを持ち歩いていなくて、「本当にミュージシャンかよ!」と言われた。最近、外で音楽を聴くことは少ない。どうにも移動が長い時なんかはiPodとイヤフォンを持っていく。でもどちらかというと耳栓代わりで、音楽を聴きたいという純粋な理由ではない。
  以前は今よりは外で音楽を聴いていた。Apple MusicがiPhoneに適用されてから、いちいち設定する作業なんかがひどく面倒になって、だからってiPodをいちいち充電する気にもなれず、結果としてなにも聴かないという選択をした。 
  イヤフォンがない方が周りの人々の会話なんかを聞けたり、電車のアナウンスに集中したりするもんなんだろうが、聞きたくない会話も多いし電車を乗り過ごすのはなくならない。それでもイヤフォンをするという選択にはなかなかならない。
  安眠のため、就寝時には耳栓をつけるようにしている。スポンジでできているタイプで、小さく潰した状態で耳に入れると潰されていたスポンジが元に戻ろうとするから耳にちょうどよくフィットする。一番遮音性が高い種類の耳栓だ。これをつけていれば、家族が早起きでバタバタと準備をしていても起こされる可能性が少し減る(ゼロではないのは私の睡眠が浅いから)。
 この文章の始めに「外で音楽を聴くことは少ない」と書いたが、家で音楽を聴きまくっている!という訳でもない。それなりに聴くといった具合か。お金がないなりに買ったCD、youtubeにあがっているPVなどの映像、友人がフリーダウンロードで出している音源…。そんな具合のものを聴いたりしているか無音かたまにラジオかテレビ。テレビは見ているうちに時間が経ちすぎていて時間を無駄にした気分になるから長時間は見ないようにしている。ラジオは情報が音で完結しているから何か作業をする時にぴったり。でも情報は情報。沢山入れると疲れるからこれも長時間は聴かない。となると私の生活は無音がほぼ占めているのだが、日本の住宅事情的に無音はありえないわけで、今だってヘリが飛ぶ音がぶぉんぶぉんと聞こえる。だからと言って起きている時に耳栓をすると自分がほんとうにここにいるのかよくわからないような感覚になる。   自分の動作で発生する音を聞くという、音が聞こえる人間にとっては当たり前のことが、結構重要なのかもしれない。
 大学で手話の授業を取っていた時、耳栓をして1日生活をするという課題があった。耳栓をしていれば喋ってもよかったんだろうが、私は極力会話をせずに過ごした。耳栓をして向かった先は銀座。当時、芸術系授業の課題で銀座の画廊に行くことが何回かあったせいか、銀座をひとりで歩くことにはまっていた。耳栓をして歩く銀座は非現実的に感じた。歩いてる人たちが確かにそこにいるのにいないかのように音が聞こえない。休日だから結構人がいたのだが、音がない銀座は、平日の閑散とした水族館をゆったりと進んでいるような、ゴーストタウンに迷い込んでゴーストたちと歩いているような、そういう不思議な感覚になった。先天性で音を聞けない人はそれが当たり前だから違和感はないのかもしれないが、中途失聴の人たちは音がある世界から音がない世界にやってきたわけで、もしかしたら私が銀座で感じたようなことを感じているのかもしれない。
 どんなに嫌でも音と生活していくんだろうと思う反面、突然それらが失われる可能性だってある。でもそうなったとして悲しいとは思わない。聴力がない代わりに何か別の感覚が生まれるかもしれない。そんな都合のいいものは生まれなかったとしても、聴力がないということがある状態になる。聴力がなくなったら歌が歌えなくなるかもしれないが、意識があって手が動けば文章なんかは書ける。
 つらつらと音と音楽との付き合い方について書いてみた。なんでもそうだけど、依存しすぎず、突き放しすぎず、うまい付き合い方を見つけたいものである。

この記事が気に入ったら、サポートをしてみませんか?気軽にクリエイターを支援できます。

2

closer_note

しずくだうみ

コメントを投稿するには、 ログイン または 会員登録 をする必要があります。