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Club Q オンライン勉強会 「第13回 愚者ときどき賢人かい(会)?ー散逸構造(逆説的な世界)Ⅱー(2022-5-10)」はいかがでしたか?

「感想」
今回は、Kurimoto Shingoさん(いくつかの会社の代表や役員あと渋々現役プログラマ)の感想です。


第二回目。という事で、いかがでしたか?と問われれば、「わかったー」と答えたいところですが。

これが全然わかんなかったーw と言わざる得ない。

本当は第一回目終了の二日後には本をゲットし、第二回目までには読破しようと思ってましたが・・思いの外邪魔が入りまして・・

三女が彼氏いなくて暇だとうるさく。GWに青森旅行に行きました。

諸悪の根源です。

仕事の合間の時間をかなりえぐられ・・実はこの旅行でも本は持って行ってたのですが。この23歳の体力で歩くペースにつきあってると、ホテルに戻った時は疲れ果てて寝てるだけです・・

まぁ、いいわけはいいとして。自分なりの理解を書いていくと。

散逸構造というものがあるらしい。というのはワカル。(なんでかはわからないけど)

確かに人間が存在することも、というか進化というもの自体を考えると(それを物理的に考えるのもどうかと思いますが)確かにそうだ。と思います。

そうではなくて、何が違うのか?

というスタート地点がわからないのです。

私の理解だと、物理の始まりはニュートンらしい。

ニュートンさんまでの人も色々な発見をしています。ケプラーさんとか。でも、ニュートンさんからが古典物理の始まりなんだそうです。

これは何が違うのか?といえば、ニュートンさんが【普遍的】に説明した事が【物理学】だからだ。

という理解です。

なので物理屋は【普遍的】でなければならず、それはまぁ結果として【系】を小さくせざるえないのでしょうけど、そりゃま、しょうがないじゃん?と思うのですが、そうであるが故に【可逆的でなければならない】というのが物理学の【縛り】なんだろうと思っています。

その前提で復習してみましょう。

熱力学 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%B1%E5%8A%9B%E5%AD%A6
散逸構造がどーのこーの言う前に、熱力学ってなんだっけ?といえば?

まぁ書いてある通りなんだけど。

ハテ?時間の事なんてなんも定義されてないようにも思うんだが・・

とはいえ、たぶん、普遍的に語らねばならない物理学上の言葉では、時間tもプラスマイナスが必要なハズなんだけど、時間は+しかないよね?不可逆の可能性?を定義したかった??

という事がいいたかったから?????

なのかなと思ったけど、どうもそうではないらしい。時間はプラスとしか定義していない?

このあたりの感覚がまだおいついてないので全然わからなかかったです。

たぶん。線形にしか語ってないけど、非線形(非平衡)な状態でもある程度は物理学として語れる事もあるでしょ?という切り込みなのかなぁ? という理解でした。

録画が欲しいという意見には笑えましたがとても賛同できます。これを何百円かの世界で運営するのですから頭下がります。ありがとうございます。

でもま、一期一会ですね。続きは自分で頑張りましょうw

知る為に何を勉強するか論は、感動しました。私は幼少の頃から極度のめんどくさがりで、知らなければいけない事をわからないなりに読み進め、漢字を含めそれに必要な事【だけ】を勉強する習慣がありましたw おぉ!私のやり方を今初めて認めてもらえた。と思いました。

両親には、興味持った事【しか】勉強しない子と言われ続けてましたので。(いやその通りなんですけどw)

とりあえず、易者に祈りをささげつつ。なんかご高尚なお話を伺いましたレベルで申し訳ないですが。ありがとうございました。

ペトロスキー先生からのコメント
Kurimotoさんの混乱は、物理学が何を研究する学問であるかを知らないから起こってくるのだと思います。「物理学」を辞書で引いても表層的なことしか書いていない。
ある意味、物理学って、仏教のお経みたいなものです。お経を読むと、宇宙の大きさだの、宇宙の広さだのが克明に書いてある。あれって、まさに宇宙論なんですね。精神界、物質界も含め、さらに人間を含めた生きとし生けるものものが埋め込まれているこの宇宙がどうできているのか、思索と経験を重ね、それを、自然言語(日常言語)を使って書き上げられたものがお経ですね。物理学はその世界観を自然言語でなくて、数学という言語を使って書かれている。ただし、物理学では思索や論理的整合性ばかりでなく、実験や観測に基づいた実証的裏付けがあるとことがお経と違うところです。お経も合理的な思索に基づいて書かれております。しかし、その正当性がただ単に論理的な整合性だけなので、論理的には無矛盾だが、この宇宙とは全く無関係な事柄も論じることができる。人間の脳みそって、思索の世界で架空の世界をいくらでも考え得ることができるので、実際のこの宇宙よりもはるかに自由度がある。だから、実証的な裏付けを確認しないと、この宇宙とは全く無関係なことを論理的に論じることができてしまう。ですから、自然科学は、論理的な整合性だけでその言質の真偽を判断するだけでなくて、実験や観測を通しての真偽の判断が重要になるのです。そこが、同じ宇宙論を論じていてもお経と物理学の一番大きな違いでしょう。
では、物理学は何を論じているのか。実は、この学問が西欧から生まれてきたのには十分な根拠があるのです。古代からどの民族も世界を合理的に理解しようとしてきた。そして、西洋文明を除いて、他の文明は世界のあり方を、出来るだけ使いやすく合理的な百科事典をつくるつもりで世界を眺め、また整理してきた。古代中国ではニュートンの法則を使わずに巨大な建築物を立てていた。たとえば橋を作りたかったら、図書館に行って橋のことが書いてある本を探してきて、それに従っていれば橋ができる。この世の中の森羅万象にはそれぞれ異なった原理があり、その個々の原理に基づいて、各事象を合理的に説明すればそれで十分だと思われていたのです。
ところが、西洋文明だけが非常に変わった見方でこの自然界を理解しようとしたのです。西洋人はあらゆる事象の裏にそれを統一する統一原理があるという神懸りに基づいてこの世界を理解しようとした。その神懸ったものに見方はユダヤ キリスト教の一神教的な世界観に基づいてした。実際、物理学が生まれる初期の段階ではキリスト教の坊さんたちが大活躍しています。彼らにとって、天は神がまします場所です。ですから、天体を観測すれば、神の存在を証明できるかもしれない。実際、恒星は北極星を中心に完璧な円運動をしている。これぞ、神の属性だと考えられた。しかし、その中に惑い星、即ち惑星がある。そして、惑星は一際明るい。しかし、運動は完全な円とは程遠い。これは神の存在に対して異物ではないのか。実際、ケプラーが天体について書いた本の題名は『宇宙の調和』となっております。
そして、あらゆる現象の裏にある統一体を探そうという努力が多くの坊さんやガリレオやケプラーなどになされ、それがついに、ニュートンの法則という統一原理の発見によって、完成された。ある意味この時に物理学が始まったと言っても過言ではないと思えます。
ニュートンは各事象の一々を克明に記述するのではなくて、あらゆる事象の裏にある統一原理としてニュートンの法則を提示したのです。その時に、人類は微分という概念を発見した。微分方程式の最も重要な特徴は、たった一つの微分方程式なのに、初期条件を変えると、全く異なった解を得ることができるという特徴です。だから、ニュートンの法則というたった一つの微分方程式で、森羅万象、この世の中の全ての事象を記述できる。一つ一つの事象は全く違っている。しかし、その裏にはたった一つの原理がある。この原理のことを「法則」と呼びます。これはある意味、仏教の華厳経の有名な言葉、「一即多、多即一」を具現化してみせた法則だとも言える。
また、ニュートンの法則、即ち微分方程式の驚くべき特徴は、初期条件を一旦与えると、その運動の全未来が一意に確定してしまう点にあります。だから、初期条件の中に全未来の情報が既に存在していることになる。この様な特徴を持った微分方程式のことを決定論的微分方程式と呼びます。その場合、全未来も全過去もお見通しとなる。これって、まさに神から見た世界ですよね。ですから、決定論的な世界では時間の経過で何か新しいものが生み出されることはない。だから、決定論的な世界では、陰に陽に既にそこに在るもの、即ち、「存在」だけがあり、新しい何かの出現による「変化」がない。ある意味、無時間的な世界とも言える。
実際、ニュートンの法則が提示された直後に、この決定論的な性質がすぐに理解され、ニュートンと同期の偉大な哲学者であり数学者であったライプニッツとニュートンの間で神の存在に対する論争があり、ライプニッツが亡くなった後でもその弟子とニュートンの間で神の存在の論争が続いたのだそうです。
面白いことに、ライプニッツはニュートンの法則の発見により、神の存在が証明されたという意見でした。一方、ニュートンはそれに懐疑的だったそうです。現在、ニュートンの法則の決定論的視点を固守する人のことをニュートニアンと呼んでおります。しかし、ニュートン自身はニュートニアンではなかったという訳です。
その後、物理学はニュートン力学の発見の延長上にある、アインシュタインの相対性理論への拡張や量子力学への拡張がなされてきました。これらは「力学」の基本法則と呼ばれております。ところで、今あるものをその外部まで拡張する場合、その拡張の方向は無限にあるはずです。ところが面白いことに、西洋の物理学者は、この決定論的な性格を頑なに守って拡張してきました。即ち、アインシュタインの相対性理論も、量子力学の基本法則も共に決定論的な微分方程式で書かれています。ユダヤ人であったアインシュタインは「時間は幻想である」と本気で述べておりました。
ところが、物理学には一つだけ異端とされる理論体系があるのです。それが熱力学です。熱力学の最も重要な対象は「変化」なのです。上記の力学のニュートンの法則や相対性理論や量子力学のように「存在」を論じるのではなくて「変化」を論じているのが熱力学なのです。実際、熱力学の裏にある数学的な方程式は、上記の決定論的な法則とは違って、確率論的微分方程式で表されるのです。変化は未来に向かって起こる。だから、熱力学を論じる時には時事刻々と今まで存在していなかったものが創出されることで引き起こされる「変化」を論じるのです。散逸構造も、新しい構造が創出されたという意味での「変化」の一例です。だから、熱力学の世界は上記の力学の世界とは違って、「時間」が重要な役割を演じる世界です。そして、熱力学で一番重要な法則は「熱力学第二法則」(別名エントロピー増大の法則)と呼ばれる法則です。そしてこの法則は、この宇宙には過去から未来に一方にだけ進む「時間の矢」が存在していることを主張しています。
上記の流れから推測できる様に、一般に物理学では熱力学の方を異端視されております。なぜなら、この法則は上記の力学の法則のように一神教的な世界観との親和性がなく、反対に、多神教的な世界観との親和性があるからです。実際、もしこの世界に二柱以上の神が存在するとしたら、次になのを起こさせようかということに関して必ず喧嘩が起こってしまい、神様でも次に何が出てくるかわからなくなってしまうからです。
この様に、物理学って工学の様に目の前の複雑な現象を数学を使って正確に記述しようという学問ではなくて、この世界の成り立ちは何か、あらゆる事象の裏にはそれを統一する原理なるものがあるのか。もしそうなら、その統一原理とはどういうものなのかを論じる学問なのです。
そして、散逸構造による生命現象の把握の深みが認識される様になった現在、上記の決定論的な力学と確率論的な熱力学の関係がどうなっているのかを、以前よりも増して深刻に考えているのが現在の物理学なのです。
そして、この視点から論じているのが、プリゴジンとスタンジュールの『混沌からの秩序』という本の内容です。
参考のために、私が日本の物理学科の大学生や大学院生に教えている時に使っているスライドの一枚をここに載せております。

※画像は参加者の方へ送付済みです。

・Kurimotoさんからのコメント
ナルホド! 熱力学【が】異端なのですか!このニュアンスを物理の時間に教えてもらってれば・・・(いやそもそも寝てましたがw)

というか、壮大なコメントありがとうございます。

質疑で深堀しなくてよかった・・これを話していたら時間がいくらあっても足りませんねwと思う一方で、わざわざこれだけのコメントを書いて頂けるのは感謝です。

まぁ問題の散逸構造がわかった!というにはゴールが遠くて・・やっと序章の意味がわかった!くらいで恐縮ですがw

がんばって読み進めてみます!

ありがとうございました。
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山田洋平さんの回答は以上です。ありがとうございました!

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