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『喪失学』を読んだ備忘録(#115)

今回は『喪失学』という本を読み終わった2021/07/19の夜に頭の中に蠢く感情を書きます。

数か月、いや、数週間、いや、明日には気持ちが変わっているかもしれませんし、タメになることは何も書いてませんし、本の感想も大して書いてません。



この本を読むきっかけは、本の名前の通りに「喪失」についてまとめられていると思い手に取った。

確かに書かれている内容は「喪失」についてだったが、わたしが今求めている情報とは違った。

この本の多くは「死別」や「死生観」などに多くのページをあてている。

わたしの求めているものは死別や死生観ではなく、「目標喪失のその先」だったのだが、ページ数はほとんど割かれていなかった。

やはり「目標の喪失」などはキャリアの関連本になってくるのだろうか?

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※「キャリア」は一般的に
「会社員や職業人としての人生」
に使われますが、このnoteでは
「仕事に限らず、個人の人生そのもの」
について書いてます。
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「キャリアプラン」や「キャリアビジョン」など、
『ありたい姿になるために目標を立てること』
は多くの人がするだろう。

いわゆる「なりたい自分」に向けてのアプローチだ。

もちろん目標なんてものは立てずに
「なるようにしかならない」
というキャリアも存在する。

どちらが良い悪いなどの優劣の問題はない。

若い頃に「こうなりたい」と理想を持っている場合は、キャリアプランを立てることがあるだろう。

あの資格を取って、あの職業に付きたい。
あんな人になりたい、あんな人と働いてみたい。
あんなことがしたい、こんなことがしたい。

あんな人と付き合ってみたい、あんな人と家庭を持って暮らしてみたい。

実現しないであろう妄想含めて、色んなことを考えるものだ。

その後、ある程度の歳月を経て、自分の立ち位置や社会の現実を知り、キャリアの選択肢や数年先の未来がある程度見えてくる。

そこで
「これがあの時立てた目標から行き着いた先なのか?」
という気持ちになるものだ。

このような気持ちは多くの人が感じることだろう。

このような
「失ったわけでもないけど、大してなにも得てもいない」
という
〈なんとなく喪失したような状態〉
について学問的に語られている本はないのだろうか?

エッセイは探せばいくらでもあるだろうが、人はみなそれぞれの人生を生きている。
エッセイとしては楽しめるが、読み終わると
「でもやっぱ、自分の置かれている状況と違いすぎる」
と思うことが多くある。

この『喪失学』という本には、もしかしたら自分のモヤモヤを解決することが書いてあるかも…!と思ったのだが書かれていなかった。

キャリアは偶然性によって生まれるとよく言われるが、「偶然を引き寄せるための○○」のような路線にすがるしかなくなるのか。

「流れついた先で頑張るしかない」のは間違いない。
「満足するキャリアを送るために、日々こつこつと生活するしかない」のも間違いない。
そんなことは重々承知の上である。


ひと昔前の価値観として存在した
働いて、結婚して、家庭持って、子供と暮らす
というスタンダードが崩れた時代。

スタンダードではなくなったとはいえ、未だにそのようなキャリアもある。

最近では、代替的なアプローチとして
恋愛はそこそこにバリバリ働こう!
仕事はそこそこに趣味を楽しもう!
という、
「結婚や子育てが全てではない。与えられた1度きりの人生を楽しく生きよう!」
というキャリアも定着しつつある。
多様な生き方が認められた証だろう。 

だが、この「楽しく生きるべき信仰(?)」が腑に落ちていない自分は、これらに首肯できない感覚に陥っている状態で必死に足掻いている。

どのようなキャリアが自分に合っているのか未だによくわからない。
(わかっている人などいないのかもしれないが)


こんなことを頭の中で話をこねくり回すのが自分の悪い癖なのは分かっているが、他人からみてどんな突飛な考え方であっても、自分が納得しないと気が済まない性分のようだ。

『喪失学』という本を読んだのに、何故か
「どのようになりたいか」
「どのように生きたいか」
ということを考え出してしまった。

夜遅いからもう寝よう。

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