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この物語が悲痛なのは、私がこんなにも苦しんだことが今までなかったという事実である。 ソフィ・カル 「限局性激痛」

「人生最大の苦しみをその治癒の過程をあらわした」とレビューに書かれていることが多い作品だけど、わたしはこれは治癒ではなく前進のための整理と忘却なんじゃないかと思う。傷がなくったわけではないと思うのだ。

というのは、似たような体験をした私の実感だ。美術館に行って自分プライベートなことに直接関わるような体験をすることは今まであまりなかった(ダダイズム〜ミニマリズムからアートに入ったから物語にあまり興味がない時期が長かった)。なので結構こはずかしい気持ちもあるのですが、この作品に出会ってよかったと思っているので、記録に書いておくことにします。

ソフィ・カルの『限局性激痛』は1984年に研修として日本に3ヶ月滞在したのち、研修のせいで遠距離恋愛となった恋人と再会の約束をするも直前に別れを突きつけられるという「人生最大の苦しみ」の過程をたどる第1部と、それを人に話し、話し相手の「人生最大の苦しみ」も聞く、という作業を経て立ち直るまでの過程を写真と刺繍によるテキストをつかって綴った第2部からなる作品だ。第1部は日本滞在中にカルが撮った写真や、彼と交わしたラブレターが飾られ、第2部はカルが語る「苦しみ」と話相手が語る「苦しみ」の写真と刺繍のテキストが交互に配置されている。話相手の「苦しみ」はカルのような失恋の話もあれば、同性愛についてや家族の死など様々な内容が並んでいた。今回は展示室の撮影不可だったので写真はないですが、展示室の様子などは美術館各メディアの記事をみるとわかるかと。

わたしは2013年にこの作品を鑑賞したことがある。当時は、冒頭に書いた通り通り「人生最大の苦しみ」の真っ只中で生傷をえぐられるような思いで鑑賞した。「人生最大の苦しみ」が刺繍で綴られていることは、絡まった糸が喉を締め付けるような逃れられなさ、苦しさを想像させた。呪いのようだと思った。長期間付き合ったのちに遠距離恋愛がはじまり、離れた地でラブレターを交わし、会う約束をし、再会の日を指折り数え、しかし突然の別れが降りかかる。作品中の二人のやりとりに身の覚えがありすぎる…。

この文章のタイトルにした一節は、カルが自分の苦しみを人に話しはじめて58日目の文章に登場する。この日を境にカルのテキストは短く完結になり、刺繍の色も薄くなり、苦しみが薄くなっていっていることを想像させる表現がされている。これは2013年の私には受け入れ難い内容だった。人の話を聞いたところで、わたしが感じた苦しみは消えないじゃないか、と思っていた。そんな簡単に割り切れるもんか、傷は癒えないぞ、と。

2019年の私はもう少し冷静に作品を見ていた。「この物語が悲痛なのは、私がこんなにも苦しんだことが今までなかったという事実である。」ああ本当にその通り。単に知らなかっただけ。自分が感じた苦しみや、裏切られたという思いや、自分の非についての後悔は消えない。他人が自分の苦しみを取り除いてくれることはない。でも、整理して、苦しみを自分の真ん中から片隅へ移動させることくらいはできる。そこに気づいたら悲劇のヒロインにとどまらずに、次に進むことができる。カルのテキストの隣に配置される話し相手の「苦しみ」のように、世の中にはどうにも不条理なことが山のようにあるけど、その中でどうにか生きている。人間は脆くて残酷で曖昧でタフな生き物だよ、そんなものだよ、と言われている気がした。

恋愛について言えば、恋は盲目というけれど、恋がなくなっても生きていかなきゃいけないし、恋しないで生きてても別に良いじゃんってことを忘れちゃいけない。

この苦しいエピソードをわざわざ作品にするカル本人もぜんぜん癒えてないかもしれない。真相は本人に聞かないとわからないけれど。ただ自分をいやすだけなら記録もいらないし、記録するならノートやデータで良い。わざわざ刺繍を使って表現しているのは、痛みから逃げないぞという強い姿勢なようにも思えるし、私が感じたようにある種の呪いかもしれないし、マゾヒスティックな身振りにも見えるし、そういうのをひっくるめてわざわざ増幅するのがアーティスト、ということなのかもしれない。

と、書きながら、カルがこの作品を制作している過程を想像してみると、人生を揺るがす物語がディティールしかない断片の集まりになっていっている方な気もしている。テキストは物語ではなく文字や糸に。写真は色の塊に。事実、写真も刺繍も美しかった。






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