見出し画像

セカイ系の揶揄に加担する-3/14/24

ザッカン系

かねてから米澤柊さんというグラフィックアーティストの方が好きで、各SNSをフォローしながら、新しい作品や展示などに関わる各種アナウンスを追うようにしていた。
すると、今度新しく発売される書籍のカバーイラストを担当するとの交信があった。その本は曰く、「セカイ系最強」とのこと。著者は北川栞さんという方。へー、セカイ系は前からうっすらしってたけどちゃんと勉強したことはなかったなアと思い、著者の方の過去の執筆物を見てみることにした。

これから書くのはそこに書いてあることを呼んで思ったメモのようなものにになると思いま~す

「セカイ系という言葉において、「世界」ではなく「セカイ」とあえてカタカナ表記にしているのには、意味がある。それは、セカイ系という系統の擁する「セカイ」は、世界でもなんでもないのだという内省的な態度である。」

的なね

いいなあ・・・。槻矢いくむによって作られたとされるこの言葉は、本人曰く「これらの作品は特徴として、たかだか語り手自身の了見を「世界」という誇大な言葉で表したがる傾向があり、そこから「セカイ系」という名称になった」というある種そうした作品群を揶揄するための呼称というバックグラウンドを起源とするらしい。つまりそこまで深い意味はなかったとのこと。

そのある種の揶揄に、「ボクとキミのセカイ」の仮構性に、私たちはいつだって自覚的だ。
でもどうして私たちはこのカテゴライズや揶揄を素直に受け入れてしまうのだろうか。ともすればそんな自分をみて、また自分が揶揄に加担してしまっている。「セカイ」なんてどこにもないことは、わかってる。


セカイ系のセカイにおいて、たいてい主人公の男は俯瞰で、退屈な「世界」を冷笑している。大人はうそつき、社会は資本主義の奴隷、クラスメイトは幼稚だなんだとかんがえながら、頬杖をついて窓を眺める。つまり、男は「世界はつまらないものなんだ」という価値観を内面化していることがセカイ系主人公の素質であり前提なのだ。誰でもなれるわけじゃない。そんな日常をぶち壊す「キミ」が現れることで、世界は「セカイ」になりうる。そう、セカイを冷笑することが、セカイに行くための条件であるという淡い願望が強く反映されたスタンスなのではないだろうか。

自分で書いてても思うけどかなり「クサイ系」の文章になてる。不思議だ。
あとでもうすこしいろいろ考えてみるよ、じいさん。

亜人の

亜人久々に読んだ~~中学生以来!死ぬほどおもれ~~~~~~~~~~~~おもろかった~~~~~~~~~~~ん♡♡♡

○亜人というモチーフによって「人間とは何なのか?」というある意味陳腐なテーゼを大仰に提示しない

○亜人という極めてキャッチーなモチーフを深掘ることなく、あくまで登場人物たちの内面にフォーカスを当てることに終始する

○佐藤が読者へのサービス精神にあふれた極めて純度の高い装置である

この3点が個人的にはグッときた理由!

↓好きなシーン


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?