230916日記

未明に『AIの遺電子』というアニメを見た

ものすっごく癖に刺さる

AIが発達した世界で、
人とヒューマノイドが共にくらいしてく中で
人はヒューマノイドとどう向き合うのか
ひいてはどうAIと向き合うのかを模索している
そんな作品としてみてる

AIはじめ技術との向き合い方は難しくて
だからこそ考えがいがあるというか
いつまでも時間を掛けられる問題だと思っている

問題、といっても
解決しなければいけないものもいうか
無くさなければならないもの、という認識はなくて
もちろん無くならないからというのもあるけれど、
深刻ではないというか
人と人との関係と近しいがゆえに
単に相似なものとして見ている、といった感じ。

というのも、人が人の理論で作っている以上
人を超えても人であるというか
理解できない発想を持つ人がいるように
技術を見ているというか
科学の理論も、そこにあるものを人間語に表したもの
と思っているので
大きく人間の枠をそれないと見ているから。

マシンがヒューマンに近づくように
ヒューマンがマシンに近づいている
そんな気もする中で
マシンだけに抱く何かがあるというのは
自然であり滑稽でもある
(本来自然なことは美しくなると思っている)

人間らしさ、人が人たりうるものを追求すればするほど
マシンはヒューマンに近づく
そして人々が理論を構築すればするほど
ヒューマンはマシンに近づく

個人的な話になるけれど、
僕は普段ライブ配信を見ていて
配信中チャットで配信者とコミュニケーションを取る

そこではこちらは顔を観れるけど、相手は顔を見れない
という絶対的な環境がある

なのでこちら(リスナー)としては
相手のリアクションを見ながら発言を選ぶことができる
また、あちら(配信者)としては
相手の人物像を想像しながら発言を選ぶ必要がある

この「選ぶことができる」と「選ぶ必要がある」は
似て非なるもので、
やはり見られている側(配信者)の方が
その分苦労したり大変な思いをしている、と思う。

また、こちら(リスナー)は
文字面だけで判断されるので、
うまく流れを掴んだり文字数にある程度縛りを設けて
読みやすいチャットを送ったりする。

この、お互い気を遣う環境下で
僕はかれこれ3年くらい過ごしているわけだけれども

やはりというか、
配信者側は、いい画角、いい明るさ、いいリアクション
などがあるし、
リスナー側もいいコメント、いい距離感
などがある。

特にリスナーは文字列のみのコミュニケーションなので
正解が見つけやすかったりする。
ここでいう正解とは、相手が喜ぶことである。

早い話が「思っていなくても」相手が喜べばいい
のである。

そうなった時、お互い感情を置いておいて
ただ精密に相手を喜ばせられれば
それはいい配信者/リスナーとなる
客観的にではなく、他方がそう認識する。

AIの遺電子に話は戻る

極力ネタバレをしないようにするが、
恋人代行ロボットが出てくる回がある

この恋人代行ロボットは、
相手の気持ちを汲み取る(ようにプログラムされ)
相手の理想に寄り添う(ようにプログラムされている)
そしてロボット利用者は、
人間に対してロボットに劣る諸々を感じながら…
という話

それが実行されているということは
人の感情に対する正解が導き出せたということになる



人とロボットの境目とはなんだろう
人にできることはなんだろう
最後に人を選ぶに至るものってなんだろう

そんなことを考えさせられる

AIが仕事を奪うという論争は絶えない。
しかし、仕事のみならず、生活の諸々を
既に奪われていることにはスポットが当たらない
それはきっと、生活が便利になっているからだろう
奪われるという感覚がないのだ

しかし確実に入れ替わっている。

良し悪しではない。
そもそも二元論ではない。

その中で、どうやって生きるか、という
Howな部分が着目されているが
これはHow toのような薄っぺらさはない

AすればBとなる部分と
AすれどもBならずとなる部分がある
幸か不幸か、ヒューマンには後者が存在する
そして、Aは今でこそBならざれど、いつかBになる
こともある

いや、技術の進化もまた然りか

つくづく差がないと思う。
別のものなんだが、親和性を感じる。
やはり相似なのだろう。

自分がどう生きるか
自分がどう振る舞うか
そこに対象の違いはあれど
大差はないのかもしれない。

0917 予定
そんな中、アナログな文房具を見に行く
電気こそ通ってないが、そこにも理論と個性がある
いいものに出会えるといいな。

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