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京都大学に泊まった話

アドベントカレンダーで京都の話を書いたら、急に昔が懐かしくなり、忘れないうちに書いておこうと思いました。現在の話ではありませんので誤解なきよう。何十年も前の学生時代の話です。

共に山に登っていた友人が、北海道の大雪山で京都大学の学生と知り合ったと話してくれた。
その頃、僕らは東京の大学生だったのだけれど、大阪府吹田市にできた国立民族学博物館の梅棹忠夫館長や、今西進化論の今西錦司京大教授、世界を舞台にフィールドワークを行なっていた石毛直道、独自の歴史観を打ち立てた梅原猛、戦後民主主義など現代社会に切り込んでいた鶴見俊輔など、いわゆる新京都学派にかぶれていたのである。
哲学やら文化人類学なんていう学問に興味を持って、彼らが世に問う本を読んでいた。その、総本山である京都大学の学生と知り合ったという話はあまりに魅力的な話だった。

私と友人は、ただただ好奇心に突き動かされて、大垣行きの東海道線にテントを担いで乗り込んだ。
貧乏学生であるからして、京都のホテルに投宿するような金は持ち合わせていなかった。無論、東海道新幹線など夢のまた夢である。
金はないが、時間はあったから、各駅停車の旅でテントとシュラフを担いで僕たちは旅の人となった。

やっとのことで京都駅に着いたものの、友人が知っているのは、訪ねる人が京都大学農学部の学生であるという事と、苗字だけである。
住所も、電話番号も知らないのである。

だが手掛かりが少ない分、できることの選択肢も限られる。
僕たちは、迷う事なく京都大学の学生課を訪ねた。
東京から貴学の学生を訪ねてやってきたが、名前しか分からない。
哀れな旅の者に、住所を教えてはもらえまいか?とお願いするためである。

「無理かもしれない」などと考えている暇はない。
我々はもう京都にいるのだし、手掛かりはそれ一つしかないのだ。

東京からの流れ者を不憫に思ったのか、今ほど個人情報にやかましい時代ではなかったからか、学生課の職員は、その学生が確かに本学に在籍する学生であることを確認するや、難なく住所と電話番号を教えてくれた。

まずは第一関門突破である。
難関を突破すれば、安心感から腹が空くのは、当たり前の成り行きだ。
僕たちは、京大の学食にいき、あたかも京都大学の学生であるかのように、行列に並んだ。だが、我々が京大の学生でないことはすぐにバレてしまった。

カレーを注文した私は、お玉でルーをすくってくれたおばちゃんに「卵は?」と聞かれて、往生してしまったのだ。
「卵は?」って、なんでそんなこと聞くの? 茹で卵だったら別にいらないけど。生卵だとしたら、いるわけないじゃん。なんでそんなこと聞くのかな。

周りを見回すと、カレーに生卵をのせて食べている人が大勢いるではないか!
関西では、カレーに生卵を落とすのが当たり前の食べ方だと知って、カルチャーショックを受けている姿を晒してしまったのだ。学食一見さん丸出しである。

言葉も食習慣も違う余所者風の二人組でも、誰何されることもなく、食事にありつくことができた。

腹ごしらえも済み、教えてもらった番号に電話をしてみたが応答はなかった。
仕方がないので、住所を訪ねることにした。
上ルとか下ルとか、馴染みのない住居表示に戸惑いながらも、下宿先を尋ね当てることができた。しかし、呼び鈴を押しても返事はなかった。
授業でも受けているのかもしれない。僕らはそこでひたすら待つことにした。
それ以外にできることはなかったからだ。

運が良かったのは、その日のうちに、それも日が暮れる前に尋ね人が下宿に帰ってきてくれたことだ。

彼は、人好きのする人物とみえ、突然の訪問者に驚くこともなく、笑顔で歓迎してくれた。そして、初対面の私に対しても分け隔てなく親切に接してくれた。
大雪山行の仲間全員に声をかけてくれ、(私を除いて)北海道で出会った仲間が全員集合となった。

せっかく来たんだからと、彼らは何やら相談をはじめ、僕たちを明日「鞍馬山」に連れて行ってくれることになった。
幸い自家用車を持っている友達がいて、翌日僕たちは鞍馬山を大いに楽しんだ。

到着した日に「今晩泊まるところはあるのか?」と聞かれ、
「大丈夫。東京からテントを担いできているので、心配はいらない。テントを張れる場所を探して寝るから!」
と答えた。
しかし、どこにテントを張るのか、僕たちに当てがあった訳ではなかった。京都なんだから、どこかの寺の境内でテントくらい張らせてもらえるんじゃないかと気安く考えていた。
が、そんな場所はどこにもなかった。

仕方なく僕らは、京都大学に舞い戻った。
幸い、教室にコの字に囲まれた目立たない中庭があるのを見つけた。学生寮の近くだった。

学生寮ならトイレも風呂もあるに違いない。
僕らは一計を案じ、酒瓶を担いで寮長を尋ねることにした。
国立大学の学生寮というのは、古くからキャンパス内にあり、古色蒼然とした建物に、自治の気風高く、バンカラ気質の浮世離れした住人たちがいることを知っていた。

僕らが、
「寮長はおられるか?」
と尋ねると、案の定という風態の痩せた男が現れた。
「我々は、京都大学の友人を訪ねて上洛した東京の学生である。寮の近くにテントを張らせていただく許可をいただきたい。また、風呂やトイレなど一宿一飯の恩義に預かりたく、こうして酒を土産にご挨拶にあがりました」

寮長も、相当な人物と見え、誰に相談することもなく
「遠路はるばるよく来られた。風呂もトイレも好きなだけ使ってくれて構わない。早速歓迎の宴を開くから、暫し待たれよ」

こうして、僕たちは初対面の寮の住人たちと夜遅くまで飲み食いし、持って行ったより遥かに多くの酒を飲み、高歌放吟したのである。


翌朝は周囲のざわめく感じで目が覚めた。
何事かと、シュラフを抜け出しテントの入り口を開けると、校舎の窓に鈴なりの学生たちの顔が見えた。代表して教授らしき人物がこう聞いてきた。
「君たちは、何をしとるのかね?」

「テントを張って寝ているんであります」
みたいなことを答えたような気がするが、詳しいことは覚えていない。

友人が、北海道の大雪山で出会った農学部の面々も、なんの前触れもなくテントを担いでやってきた僕たちのことを、驚きもせず暖かく迎え入れてくれた。僕は初対面だったが、友人は旧交を温め、大雪山でテントで寝ているときに熊がやってきて、食べ物を物色している様子などを熊の鼻息を再現しながら臨場感たっぷりに語り合っていた。
そのとき、熊に襲われていたら、友人たちはここにいないどころか、この世にいなかった可能性もあった。

学生寮の面々も、痛快だった。
突然、訪ねてきた見ず知らずの学生を相手に、きちんと挨拶をすれば、これ以上ない歓待で迎えてくれる。
寮長が一声かければ人はすぐに集まった。なんの脈絡もなく、突然降って湧いたように現れた僕たちと宴を催す。
この寮の面々と道ですれ違ってもあの時の君か?とはならないだろう。
顔も名前も覚えちゃいない。まさに一期一会である。

同じ学生という身分で、同じように金がない。
下宿より費用の安い寮に入る学生は苦学生に違いない。でも、僕たちはこれぽっちも惨めでもなかったし、侘しくもなかった。それどころか、夢があった。いずれは一角の人物になって、何かを成し遂げてみせる。そんな若々しい気負いが僕たちの共通項だった。
その上、なんとはなしに上手くいくという楽観があった。
実際、京都に来てから、何もかもが上手く行った。


あれから40年近い歳月が流れた。
京都で出会った面々は、どんな社会人になったのだろうか。そしてどんな業績を残したのだろう。彼らが一角の人物になったことは想像に難くない。

そして、
今でも東京から突然やってきた酔狂な学生のことは、覚えていてくれるだろうか?

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