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義を見てせざるは勇なきなり


はるか昔の話をわざわざここに書くのは、かつての体験が今に生きているなぁと感じるからである。

中学生の頃の事である。ざっとこんな話だ。

ある朝、いつものように通学路を歩いていた私は、校舎へと続く坂道を登っていた。もう学校の敷地内である。
その坂道に、ビニール袋のようなゴミが落ちていた。

「拾わなきゃ」

そう考えた私は、姿勢をかがめてゴミを拾おうとした。

しかし、もう1人の私が耳元でこう囁いた。

「拾ったとして、教室のゴミ箱まで持って歩くの面倒じゃない? 別に君が散らかしたゴミでもないし。君が拾わなかったとしてもあとで用務員さんが掃除してくれるでしょ。問題なし」

私はそのささやきに従って、一旦はかがみかけたものの、ゴミを拾うのをやめた。

その時である。

ちょうど私の横を通りかかったおじさんが私に向かってこういった。

「義を見てせざるは勇なきなり」

それだけ言うと、水戸黄門のように「カッ、カッ、カッ」と笑って歩いて行ってしまった。

校長先生だった。

その一言は私の胸にスッと入ってきた。心に沁みたのだ。

「ここで論語かい。校長ってのはさすがに良いこと言うねぇ!」

私は、自分に勇気がなかった事を素直に認めるしかなかった。
思春期の中学生である
「ゴミを拾いなさい」
と命令されていたら、反発していたかもしれない。

しかし、校長は論語の一節を語っただけで、余計なことは何も言わずその場を去った。

もしかしたら、これが教養ってもの?

私の心には、反発ではなく尊敬の気持ちが湧いていた。




その後、こんなこともあった。

休み時間に、教室の前の廊下で仲間と戯れていた時、たまたま落ちていたゴミを拾った。

その刹那、クラス担任が現れ、笑顔で私に
「ありがとう!」
と言って歩いて行った。

その時、感謝を示されたことが嬉しかったのを覚えている。
人の役に立てるという誇らしさを感じていたのかもしれない。

なぜ、今頃こんな昔のことを思い出しているのかというと、友人が人知れずゴミを拾っているからなのだ。黙々と。たった1人で。

彼は、駅から自宅に至る通勤路があまりに汚いとゴミを拾い始めた。

タバコを吸わない彼が、タバコの吸い殻を拾うのはどんな気持ちなのだろう、と想像した。

何が彼をそうさせているのか?

私は、友人の行為はとても尊いものだと感じていた。

自分が感じている尊さの正体って一体なんなのだろう?

そんなことを考えていた時だった。

サッカー日本代表を応援しにカタールまで出かけたサポーター達が、スタジアムを掃除している様子に
「褒められて喜んでいる奴隷根性が口惜しい」
とツイートした日本人経営者がいたことを知った。


・自宅の最寄り駅周辺を、たった1人でゴミを拾う友人

・ゴミを拾う日本人サポーターを奴隷根性と言って悔しがる人


彼我の違いはどこから生まれてくるのか?

まず、最初に抱いた違和感は「褒められて喜んでいる」と見ているものの見方だった。

そう発信する人は、何かをする時「人からどう見られるか」を考えて自分の行動を決めているのだろうと想像した。

こうした行動パターンは日本人には決して珍しいものではない。
日本の子供は「人に迷惑をかけるな」と言い聞かされて育つ。
「人に迷惑さえかけなければ何をやってもいい」と表現されることもある。

これは、人に迷惑をかけることはやってはいけないことだ!という刷り込みを子供に与える。
この価値観は、子供だけでなく刷り込む側の大人もそう信じている。

であればこそ、「子供の声がうるさい」という苦情で、公園が閉園に追い込まれるなんていう公共政策が罷り通るのだろう。

子供が遊ぶ声がやかましいから、公園は迷惑施設だという事になる。
迷惑をかけるものは撤去すべきだということになり、閉園となるわけだ。

そこには、人の権利とは本来衝突し合うもので、その整合を取るのが為政者の仕事だという発想は微塵もない。
迷惑=悪なのである。

「子供が遊ぶ権利」と「静謐に暮らす権利」
これは、どちらも社会の中で認められている権利だと思うが、正当な権利同士のバランスを取り、双方の権利を尊重するということにはならず、日本では「迷惑だ」と言った側が一方的に勝利するのである。

「迷惑だ」と言われるかどうか、つまり「人からどう見られるか」が決定の判断基準になっているのだ。

おそらく、道に吸い殻やゴミを捨てるのは
「そのくらいのことで、人から迷惑だと苦情を言われることはない」
という判断があるのだろう。

宗教を信じている人なら、そういうことは「神が許さない」。
あるいは「人に見られていなくても神様が見ているから」という理由でゴミを捨てることにブレーキがかかるだろう。

自分の中に、「ゴミをゴミ箱以外の場所へ捨ててはいけない」という規範や倫理観を持っている人も、ゴミを捨てることにブレーキがかかるだろう。

しかし、他人の目が基準であれば、それがどんな行為であれ「人から咎められなければ」やるし、「人から褒められ」ればやる、ということなのだろう。
基準は行動主体にあるのではなく、自分の外側にある。

私はこのnoteで「人に迷惑をかけない!なんて考えなくていい!!」にも書いたが、「人に迷惑かどうか」を行動基準にも判断基準にもしていないので、「褒められようとしてやっている」というものの見方自体に、強烈な違和感を感じたのである。

私の友人も、ゴミ拾いを人に褒められたら嬉しいだろうが、褒めてもらおうと思ってやっている訳ではない。

これが第一の視点。



第二の視点は、人が掃除をしたりゴミを拾ったりする行為を見ると「奴隷根性」と貶めてみたくなる心理を解き明かしたいという思いである。

これは、掃除やゴミ拾いが、人がやりたがらないことをやっている善行だからだと推測できる。やった方いい行為、望ましい行為、もしかしたらやるべき行為だからなのかも知れない。

こんな現象を見るにつけ思い出す話がある。
イソップ寓話「酸っぱいブドウ」である。

美味しそうなブドウを見つけたキツネが、ブドウを取って食べようとするが、何度やっても手に入らないと分かった時、「あのブドウは酸っぱいからいらない」と言って去っていく話である。

残念な気持ちをそのまま受け入れることができなくて、ブドウの価値を貶めることで受け入れやすくする自己防衛反応を描いた寓話だ。

このキツネにはつい笑ってしまった人も少なくないと思うが、私たちもこうした自己防衛を始終してはいないだろうか?

金持ちを見ただけて
「どうせ悪いことして儲けてるに違いない」
と、貶めることで、儲けていない自分を
「悪いことをしていないから儲けられてないだけ。無能な訳じゃない」
と自己防衛していないだろうか?

イチローの4割近い打率をみて、
「彼は天才だから」
3割も打てない自分を
「天才じゃないから打てないだけで、努力が足りない訳じゃない」
と自己防衛していないだろうか?

ゴミ拾いをしている人を見て
「褒められようと思ってやっているだけ」
ゴミを拾ったこともない自分を
「褒められて動くような人間じゃなくて、自分の価値判断で動く誇り高い人間だから拾わないだけ」
と自己正当化していないだろうか?

困っている人に寄付をしている人を見て
「売名行為」
とレッテルを貼ることで
「自分は売名行為のような汚い真似はしたくないので寄付などしない。別に不親切な訳じゃない」
と自己正当化していないだろうか?

人に何かをしてあげたり、ゴミを拾ったり、という行為をしようと思ったのにしなかった時、わたし達は自己防衛や自己正当化に走っていないだろうか?

あなたのことになど言及していないのに、なぜか自己弁護をしたくなる人たちがいる。

「いえいえ、私はただ、、、、」と自己弁護をする人々。
「奴隷根性、売名行為、偽善、褒めてもらいたいだけ」と相手を貶めることで自己正当化をする人々。


例えば、
海岸に何百万匹というヒトデが打ち上げられているのを見た時、あなたはどうするだろうか?

ある人は、海岸に出て、1匹また1匹と海に投げ返した。
それを見て、
「そんなことをしても焼け石に水じゃないか。無駄だ、やめた方がいい」
と言う人もいる。

救えたのが例え10匹であっても、助けたいと思い、実際に助けた人。
焼け石に水だから、自分の努力が水疱に期してしまうことをあらかじめ避けようとした人。

僕は、10匹しか助けられなかったとしても、自分の思いを行動に移した人こそが勝者だと思う。
なぜなら、自分の敗北を受け入れられず、戦いの舞台に登らなかった人は、その後、必ず自己弁護か自己正当化をすることになるからだ。

人生、勝つこともあれば負けることもある。

勝とうと思うからこそ、どうすればいいか考えるし、負けたとしても「より少なく負けるにはどうしたらいいか」を考えられるし、「次に戦う時に勝つにはどうしたらいいか」を考えるようになる。

負けの体験を回避するために、舞台から降りてしまっては、いや舞台に上がることを避けていては何も起こせはしない。

汚れていればキレイにしようと思うだろうし、そう思ったら掃除をすればいいのだ。
潔く生きるには、それしか方法がない。

どうせまた汚れるのだから、と掃除をしなければ、
どうせまた捨てる人がいるのだからとゴミを拾わなければ、
場が汚れるだけだ。

その上、諦めたあなたは敗北者となるのだ。

その先には、自己弁護と自己正当化の無間地獄が待っている。

そして、褒められようと思ってやっている訳じゃない人たちを見て
「褒められて喜んでいる奴隷根性が口惜しい」
と言ってしまうのだ。



「義を見てせざるは勇なきなり」
中学生の時に、僕に論語の一節をさりげなく語ってくれた校長先生

僕は、そのおかげで、自己弁護のために人を貶めたりしたりせずに済んでいるのかも知れない。

偉いのは、孔子か? 
はたまた校長先生か?

「褒められて喜んでいる奴隷根性が口惜しい」
とツイートした人に
「義を見てせざるは勇なきなり」
とリツイートしても、何も響かないだろう。

僕は、ゴミを拾おうとしてやめたこともある。
褒められようとしてでなく、自発的にゴミを拾って褒められたこともある。

どちらも私だ。

私は、汚れた街ではなくキレイな街に住みたいと、たった1人でゴミを拾いはじめた友人を支持する。
誇りにも思う。

僕も、自分のできる場所で、やろうと思ったことをやっていく。

人を貶めたりせずに、自分の作り出したい世界のために黙々と行動している人たちと手を携えていく。

あなたがヒトデを拾わないとしても、それはあなたの判断だ。
あなたの思惑とは無関係に、私はヒトデを海に投げ返すだろう。

自己防衛や自己弁護のために発言するのでなく、自分の実現したいミッションのためにこれからも発信を続けていく。


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