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教育には何が必要か

「教育は難しい」

誰かに何かを教える行為に携わった人ならばおおむね同意するところではないでしょうか。
ここで教育の内容が学問・仕事・趣味であるかは区別しません。
何か興味深いことがあり、それを学びたいと思っている人がいる。
あなたはその興味深い知識を身につけており、仲間を増やしたいと思っているとします。

誰もが最初は初心者です。あなたが知っている「興味深いこと」について本当に深い理解をしているわけではないので、「生徒」はごく表面的な興味関心からスタートします。
当然ながら学校では通信簿、仕事ではお給料のような外的動機づけがありますが、ここでは内的動機付けである「好奇心」にフォーカスしています。

はじめのうち生徒は基本的にみなやる気があります(これは本当だと思います。知らないことを知るのは楽しいので)。
ときには優れた理解力を持ち、指導により内容が分かったように見える生徒、深い理解に至る生徒がいます。
反面――特に簡単でないことを教えている場合――多くの生徒は徐々にやる気を失い、指導の内容をまったく理解していないという状況に陥ることがあります。

分からない生徒が増えたとき、教育者はしばしば教える内容を分かりやすくするよう調整を行います。
内容そのものを簡単にしたり、間引いたり、「分かる」というより「興味深い」と言えるような内容に変えてみたり…。

このような策が実際に奏功したかについては検討が必要ですが、私個人の主観としては授業全体のレベルの低下をしばしば招いてきたように思います。

生徒が「本当の理解」に至らない。この悩みにはある程度の普遍性があるようです。

私はいま、エドワード・F・レディッシュ『科学をどう教えるか』の1章を参照しながらこのエントリを書いています。そこには上で書いたのと同様の悩みが冒頭で綴られています。
興味を引かれるのは、『老子道徳経』より以下のアフォリズムが引かれているところでしょう。

師は語らずして,行うのみ.師の仕事(である弟子の教育)が成就したとき,弟子たちはいう.「すばらしいことだ,私たちは私たちの力だけでやり遂げた」

エドワード・F・レディッシュ『科学をどう教えるか』P1

前段を含めた原文は以下のとおりです。

太上、下不㆑知㆑有㆑之。其次、親㆑之譽㆑之。其次、畏㆑之、其次、侮㆑之。故、信不㆑足焉、有㆑不㆑信。猶兮其貴㆑言。功成事遂、百姓皆謂㆓我自然㆒。

老子道徳経 17章

訳では師と弟子となっていますが、原文は支配者と農民の関係を表しているようです。

引用された文脈で言わんとしているのは「教育者がすべきことを的確にやらせることで、学習者は「自分の力だけで理解した」と思えるようになる(ことが理想である)」ということでしょう。
教師は生徒にとって無色透明な存在であるのが理想なのです。

『科学をどう教えるか』ではこれに続き、教科書の教授だけではほとんどの生徒は何も学べていないことが広範な教育研究により分かっていると述べています。
そして「講義や問題演習や実験、あるいはワークショップ学習の中に注意深く設計され構成された「学習活動(activities)」」が重要なのだ、と主張しています。
実際のところ、教科書を注意深く読み熱心に考えることができるのはごくわずかの生徒なので、理解を深める上で行うべきことを実際に行うよう仕向けるような教育設計が重要ということです。

注意深い実践の重要性

では、行うべきこととはいったい何なのでしょうか?
アクティビティの設計はどのようにしたらいいのでしょうか?
考え始めるヒントとして、スポーツの世界における金言「練習には上手くなる練習と下手になる練習がある」がまず思い当たります。

次回はこれについて書いていこうと思いますが、夜も更けてきたので本日はここまでにします。

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