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あなたの会話を音楽にたとえると?

『会話と関係性』

会話って音楽みたいだなぁと思う。

ヒップホップみたいにテンポよく洒落た掛け合いを楽しむもよし。

またハードロックのようなマシンガントークを連打するもよし。

クラシックのように丁寧で格式高い音調を奏でてもいいし。

ヒーリングミュージックのように意識をトランス状態へと誘うようなセラピスティックなものもある。

友達と話していても、激しい口喧嘩してても、カウンセリングという名前のつくものをしていても、結局はどれも「会話」にほかならない。

芸の幅が広すぎるよね、会話って。

誰かとの会話の形が多彩になると、すなわちその人との関係性も多彩に広がる。

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例えば、会ったばかりの仕事仲間とは、最初は丁寧で上品に論理的なお話をすると思う。きちんと計算された音階や調律の上になりたつクラシックのように。

そこで段々と慣れてきて、お互いにボケとツッコミができるくらいになるかもしれない。ここまでくるとクレバとジブラのフリースタイルみたいに、ちょっとヒップホップ調になってくる。

ここで、仕事で重大なミスが勃発。仕事仲間はブチギレて、一方的に怒りと不満をブチまける。X JAPAN紅のイントロのように、入る隙もない。

事態は落ち着き、互いのくだけたところ、感情的なところも見せ合い、だいぶ打ち解けてくる。プロジェクトの打ち上げも兼ねて、2人でバーにいってみると、あらやだこの人結構素敵じゃない。ゆったりと含みのある言葉が、サックスで奏でたJazzのように、ぼんやりと溶け合う。

と思いきや、その仕事仲間はなんと生き別れた実の兄だということが判明。ずっと会いたかった兄妹の再会。そこには平和で前向きな気持ちが...アンパンマンのようにヘブンリーでポップな旅立ちの曲が流れ始める。そうだ!これこそ生きる喜び!!
きゃっきゃと2人で、シンプルに喜びを伝え合う。

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会話と関係性、どちらが先に来るかはわからたいけれど、この二つの関係性って面白い。

わたしは誰かと会話をしているとき、ぼーっとその会話の感じを脳内で視覚化してみることがある。

何色かなぁ
どんな形だろう
匂いはある?
音はでてるかな
触るとどんな感触?

その感じは、すなわちその瞬間の、その人との関係性にも近い。

そして、その感じは、毎瞬変化していく。会話の形がそうであるように。関係性のあり方がそうであるように。

たとえば母子関係と一口にいっても、時には親友に、ときにはライバルに、ときには批判者に、ときには支援者に、ときには...細かく分解すると無限にある。

これは恋人や友人との関係でもそう。彼氏彼女が、母息子や父娘になったり(人によっては親と赤子になったり)、いじめっ子といじめられっ子、戦友、親友、ライバル、カウンセラーとクライアント、先生と生徒、ボケ役と突っ込み役、アイドルユニット(?)、裁判官と被告人、教祖と信者、社長と秘書、王様と巫女...あげたらキリがない。

誰か特定の人との関係は、細かいところまで感じてみると、常に変化している。そしてその変化や在り方は、会話の形からも感じられるみたい。

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ところで、数日前に、常に全国を飛び回っている戦友とお茶していた。面白いプロジェクトにいれてくれたお礼と、数ヶ月遅れの誕生日祝いも兼ねて。

その戦友は容赦無く自分の考えやインスピレーションをぶつけてくるので、こちらも本気にならざるを得ない。

言いたいことを言い合える関係性ってすごい。いつも真剣勝負で、今回はどんな会話と の形になるだろうとドキドキする。

会話の形の自由度が高いのって、とてもスリリングである。ヘタしたら、どちらかが「なんなんだ、こやつは〜」となって距離を置くことになるかもしれないんだから!

だけど、この戦友のすごいところは、「◯◯の話を受けて、今モヤモヤしてるよね?」と、それさえも話の題材にしてくるので、観念してなんだかんだ向き合ってる。

わたしは生来の多動性から、自分から人との距離をじっくりつめようとするのが得意でない。今でも、ボールを追いかける犬のように、今この瞬間に起きてる物事にフォーカスし過ぎてしまうところがある。

だから、友人でも恋人でも、凧(わたし)の糸(意識)をしっかりもっててくれる人から、多くのことを学ばせてもらっている。そして、なんだかんだ救われているように思う。

だから、この戦友には感謝している。たまにわたしのキャパを超えたボールを投げてくるので、見逃し三振しちゃうこともあるんだけどね。精進しなきゃ。

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その日、その戦友と話していて、素晴らしく会話のバイブスが上がった瞬間があった。
(そう、そのときはヒップホップ調の会話だった)

前回かいたnote記事「テレパシー」をその場で読んでくれていて、経営者の立場からも納得するとかなんとか適当に相づちを打ってくれてたあとである。

わたしは急にかしこまって、真剣な表情で吐露した。

「テレパシーがあると思ってる?」

「うん、それに近いものを日々感じてるし、そうゆう出来事ってあるよね」

「実はね、わたしはもうそれがあるかないかなんて、どうでもいいの」

「ほう」

「テレパシーの送受信力を鍛えている・・」



「ばかぁ〜〜〜!!!爆笑」

(爆笑)

この絶妙なノリツッコミが快感で、これだから人と話すのって楽しい〜と嬉しくなった。(文字で伝わるかしら?笑)

(注)こうゆう時って、もはや韻と例えとテンポで会話してるので、話の内容は極めて適当です

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今もこれからも、色んな会話の形をたのしんでいくと思う。

今はまだ知らない新しい会話の形を発見したりもするだろうし、

特定の人との中に、より多彩な会話の形を発掘したりするようになると思う。(今はステキな凧使いの方々にフォローされてばかりだけどさっ)

そこで、思う。

様々な会話の形をたのしむ中で、わたし自身の基本の会話(音)は、軽やかでシンプルで楽しげな感じがいいな。たとえば、心臓の音みたいに。

どんな環境にいて、どんなことをしていても、どんな会話あるいは関係性を経験したとしても、わたし自身の音は変わらず心臓からでている。

これってとても安心できる感覚だと思うな。

thank you as always for coming here!:)