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痛み

昔とある女の子のカウンセリングをしていたときのこと。

その子にこんな言葉をかけた。

「どんな痛みもいつかは癒えるときがある。今感じてる痛みはずっとは続かない。だから安心して」

すると、その女の子はこんな言葉を返してくれた。

「わたしはこの痛みを失いたくない」

そこで、わたしは、きっと多くのカウンセラーがそうするように、彼女が痛みを失いたくない理由や背景をきいて、ひたすらそれを傾聴していた。

「その痛みを忘れると、その痛みに関わった人も自分の中で消してしまう気がする」

ここからは、半ば教師と生徒(私)のように、本当に知りたくて質問させてもらった。

「あなたにとってその痛みはどんなものなのですか?」

「痛いけど、大切なものです」

「その痛みとどう向き合っていきたいですか?」

「消したり治したりするんじゃなくて...抱きしめる感じがいいです」

「痛みを抱きしめるとき、どんな風な感じがするのですか?」

「その痛みがおきたときに私が失ったと思ったものを、その存在を感じることができます。その存在をいつまでも心の中で大切にしていたいから、わたしは痛みを抱きしめます。」

「その存在を感じるのに必要な感覚は、痛みだけなのでしょうか?他のものに変えられたりしないですか、例えば懐かしさや安心や...」

「痛みが一番いいんです」

「....」

このときわたしは、どこかで、痛みは癒されるべきものだと信じて疑っていなかったように思う。

今でもそう。苦しいものや痛みは、治癒され忘れられるべきなんじゃないかと考えがち。

でも、それはあくまで当時のわたしの感覚だった。

彼女の内的世界において、痛みとはもっと豊かで尊い価値を帯びてるのかもしれない。

不思議なことに、この話し合いがあった後くらいから、彼女は以前よりも格段に軽やかに楽そうになっていった。そして、彼女の口から痛みについて聞くことはなくなった。

その変化に、この話し合いが最も影響してるとは断定できない。人の日々は、数えきれないファクターによって出来上がってるのだから。

でも、この日を境に、わたしは感情や感覚の取り扱いについて、もうちょっと広い視野をもてるようになった気がする。

ネガティブとされる感情や感覚なら全て癒さなきゃいけないというわけではない。それを認めて抱きしめることで、結果的にその人全体にとって豊かに楽になることがある。

また結果的にその人が楽になってなかったとしても、その人自身がその感覚や感情をもっと味わいたい大切にしたいときに、その人以外の誰もそれを勝手に癒そうとしたり取り除こうとしたりする権利や意味などないのかもしれない。どう生きるかは自由だし、人生は味わうためにあるとも考えられるから。

彼女のことを思い出すたびに、自分の偏りに気付き、それによって今までより少し広く視野をもてる気がする。

thank you as always for coming here!:)