かぐや

とり、むし、けもの

「これは、ayucoさんの物語なんです。必ず観てくださいね。」

フリーランスでモデルと巫女(!)をしているという、神秘的な彼女はそう言って、リンクを貼り付けたメッセージを送ってくれた。

そのリンクの先には、ジブリ映画『かぐや姫の物語』が紹介されている。どうやら、これが、”わたし”の物語らしい。素直に彼女の指示に従い、有楽町にある映画館で鑑賞することにした。

おおまかなストーリーは、かの有名な古典である竹取物語を、原作にわりと忠実に映像化したもの。副題に、”姫の犯した罪と罰とは”とあるように、当時の仏教思想をベースに、かぐや姫がどういった罪をおって、どんな罰を受けたかということが、ストーリー展開の鍵となる。

では、その罪と罰とな何だろうか。

<罪:感情に憧れたこと>
涅槃である月にいながら、かぐや姫が、(穢れた)地球に興味をもってしまったこと。そこで生きたいと思ってしまったこと。

<罰:感情を知ること>
地球人として地球に生まれ、地球ならではの様々な感情 (とくに苦しみ)を味わうこと。そして地球が穢れていることを認め、地球という煩悩の地から脱却し、涅槃である月に帰りたいと心から願うこと。

参照:NAVERまとめ

当時の仏教において、人生とは煩悩と苦しみがうずまく穢れた世界であり、だからこそ人々は涅槃(ねはん)を目指すべきとされていた。すなわち、修行に励んで、この繰り返される輪廻から脱却し、静かで心の乱れさえも無い平和と安らぎの地(涅槃)へ行こうと謳われていた。 竹取物語では、"月=涅槃 vs 地球(人生)=穢れ" という対立構造で話がすすむ。

かぐや姫はもともと月(涅槃)の住人であった。けれど、完璧で平安な月の世界にすこし退屈していたのだろうか。地球から解脱して月にきた人の話を聞いて、地球に興味を持ってしまう。すなわち、苦しみや煩悩といった感情のジェットコースターを味わえる地球に憧れてしまった。このように、月(涅槃)の世界にいながら、月の世界でいうところの”穢れた心”を味わいたいと思ってしまったこと...これこそが、かぐや姫の罪とされている。

かぐや姫の地球に対する強い思いが現実化し、かぐや姫は地球に生まれおちることになる。そして、月での記憶は封印された上で、常人離れした成長を見せながら、翁夫婦の愛情を一身にうけて育つ。けれど、翁夫婦やその他の人々が良かれと思ってしてくれたことが、逆にかぐや姫の苦しみへと繋がっていってしまう。高貴な姫としての教育、都会の大豪邸での暮らし、帝との結婚...当時の人々にとっての”女としての最大限の幸せ”は、かぐや姫にとって”生き難さ”となってしまった。

喜びも苦しみも味わいきった姫は、ついに煩悩の地であるこの世から脱却したいと心から願う。すなわち涅槃である月に帰りたいと思う。こうやって、地球におりたち、地球ならではの煩悩や苦しみといった様々な感情を味わいつくし、地球から脱却したいと心から願うこと...これがかぐや姫に課された罰だったのである。

そして、地球から脱却したいと心から願ったとき、自分がもともと月の住人であったことを思い出す。煩悩も苦しみもない完璧に平安な世界にいたこと、そしていつでもそこに戻れることを、思い出してしまうのである。すると逆に、まだ地球にいたいと思ってしまう。穢れている部分もわかった上で、それでも地球を愛おしいと感じてしまう。けれど、一度自分が月の住人であったことを思い出してしまったことで、かぐや姫は強制的に月にもどされてしまうことになる。

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3年前にこの作品を鑑賞したときに、わけもわからず涙がでて、立ち上がれなくなってしまった。そして、この涙のわけを探るために、何度も映画館に足を運び、改めて原作を読んだりしてみた。けれども、結局自分が何に感動しているかは、最後までよくわからなかった。

特に、劇中で流れる、わらべ唄と天女の歌がながれるとき、脊髄から全身に電気が流れるような感覚があった。「わたし、何しているんだろう」「このままじゃダメだ」といてもたってもいられなくなってしまう。今振り返ると、当時は、物質的・社会的・人との関係で、理想を叶えていたけれど、心の奥底には「わたしが本当に大切にしたかった体験は、今のこの生活ではない!」という叫びがあったのかもしれない。

わらべ唄(原詞)
作詞:高畑勲 坂口理子 作曲:高畑勲

まわれ まわれ まわれよ 水車まわれ
まわって お日さん 呼んでこい
鳥 虫 けもの 草 木 花
春 夏 秋 冬 連れてこい
春 夏 秋 冬 連れてこい

まわれ まわれ まわれよ 水車まわれ
まわって お日さん 呼んでこい
まわって お日さん 呼んでこい
鳥 虫 けもの 草 木 花
咲いて 実って 散ったとて
生まれて 育って 死んだとて
風が吹き 雨が降り 水車まわり
せんぐり いのちが よみがえる
せんぐり いのちが よみがえる

天女の歌
作詞:高畑勲 坂口理子 作曲:高畑勲

まわれ めぐれ めぐれよ 遥かなときよ
めぐって 心を 呼びかえせ
めぐって 心を 呼びかえせ
鳥 虫 けもの 草 木 花
人の情けを はぐくみて
まつとしきかば 今かへりこむ

一昨日の晩、家にいるケモノ(大型犬)の耳掃除をしているときに、尾てい骨のあたりから首の付け根くらいまでが、ふわっと暖かくなる感覚を得た。からだの芯から、「幸せだ」という気持ちが湧き上がってきたのだと思う。そして、此奴の呼吸に合わせてリラックスさせながら、ヒゲの付け根や、マツゲの毛穴をまじまじと観察しているとき、「今この瞬間が本当に大切だなあ」と涙がでそうになる瞬間があった。

今この瞬間に幸せを感じる一方で、とても不安になったりする瞬間もある。「あらゆる人の人生にyesと言える自分でいたい」と会社を辞め、自分の興味関心にしたがい活動している今、多くの人に甘えさせてもらいながら、自分にとって新たな挑戦を控えていたりする。その挑戦に向かう中で、失敗したり、先が見えなくなる感覚をおぼえる瞬間もあったりする。それでも、そんなドキドキする生き方(会社にいた時はまさか自分がこんなリスクをとるとは思っていなかった)をしている自分を、どこかで呆れつつも誇らしく思うときがある。

月の住人が言うように、確かに、人間的な感情や欲望があり、さまざまな色に満ちている人間界というものは、そもそも罪なのかもしれない。でも、すべて純潔で清浄な月世界に、今この瞬間ワープしたのなら、わたしもかぐや姫のように、その罪や穢れをかけがえのないものに思ってしまう。

そういえば、2015年の冬に、10日間のヴィパッサナー瞑想をしたときにも、似たような感覚を覚えた。誰とも話さず、読み書きも禁じられ、ただ一日中瞑想する中で、仏教のいう悟りの恩恵をたくさん学び、またその一部を少しは体験したとうに思う。それらを経て、一番強烈に感じたのは、「わたしはまだまだ悟りたくない(早く帰りたい!笑)」という気持ちだった。凹むから凸るし、悪いと思うから良いと思えるものがあるし、嫌いな感じを知っているから何かを好きになることができる。わたしには、まだまだ体験したいこと、味わいたい感情、深めたい感覚が、たくさんあるような気がした。

なにか大きな出来事があり、嵐のような感情の渦中にいるときは、こんな風に思えないかもしれない。けれど、ヨガや瞑想を深いレベルで実践しているときは、精神的な至福と一緒に、そんな気持ちになることがあるみたい。

記憶に残る経験であったにもかかわらず、なかなか感想をかけずにいた、”かぐや姫の物語”と”ヴィパッサナー瞑想”が、こういった形でつながり、各々の気づきに厚みをもたらしてくれてる。人生って神秘的だなあ。

今はもう疎遠になってしまった彼女が、「かぐや姫の物語は、ayucoさんの物語なんです。」といった真意は未だわからない。けれど、彼女の言葉がきっかけで、苦楽に関係なく、生きることをまるごと楽しむ決意ができたように思う。彼女が元気に過ごしていますように。



thank you as always for coming here!:)