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くうきのなかみ

はじめて空気のなかみを意識したのは、たぶん幼稚園のときだと思う。

4つ年上の兄につれられて、ちかくの小学校にあそびにいく途中、ふとこんな話をした。

「あゆこ、今ここになにかあると思う?」

兄が目のまえの宙を手でかき回す。

(何もない!)

すると、こう、得意気に説明される。

「それは何もないのやなくて、何もないように見えているだけなんやで。ここには、酸素と二酸化炭素がある。」

(すごい!お兄ちゃん、天才!!)

「酸素と二酸化炭素っていみわかる?」

(さんそ...にさんかさんそ....何となく、にさんかさんそ より さんそ の方がえらいんだろう。)

「“にさんか た んそ”ね」

でも、それが本当にあるかないか、目に見えない以上、わからないじゃないか。

「今から30秒間、息を止めてみ。苦しくなるやろ?それは、酸素がたりなくなったからやで」「人は酸素をすって、二酸化炭素をはきだしてる!」

(すごい!やっぱりお兄ちゃんは天才!!)

「それだといつか酸素がなくなってしまうやろ? どうしてると思う?」

(少なめに息を吸う...)

「逆に、二酸化炭素をすって、酸素をだす生き物がいる」

(めっちゃ会ってみたい...!)

「それは植物で、光合成っていうねん」

(すごいーーーー!なんか、かっこいい!!)

「だから、呼吸だけする生き物と光合成もできる生き物のバランスが大切なんだよ」

みたいな知的な結論までいっていたかはさておき、この時の記憶って、はじめて感じた、知ることの喜びな気がする。

純粋に感動してるかどうかって、頭で判断しないほうがいいなぁと、最近わかってきた。

発達した理性が、こっそり損得勘定やセルフコーチングの目線から、「あなたという人間は何に感動すべきか」指令をだしている可能性があるから。

純粋に感動しているかどうかは、身体の反応が一番正直だと思う。

ふとした瞬間に、鳥肌がたって、身体の奥からジワッと熱いものを湧き出る。これが、わたしの場合のサイン。

そして、本当に感動したり、意識が研ぎ澄まされる瞬間、五感の機能が明らかにアップグレードされているように感じる。

相手の動きがとてもスローモーションに見えたり、光の反射がとても鮮明にみえたり、その他諸々。

生き物って、教科書で習った以上に面白い機能がたくさんあるんじゃないかなぁ。

だから、集中した状態のアスリートやアーティストのように、五感が発達した状態の生き物の主観を、客観的に観える形で表現すると、とても面白い作品ができると思う。

はじめの切り口は、ヨガでも瞑想でも心理学でもなんでもいい。

生き物をみていくとき、身体的、精神的、社会的、霊的な4つの側面から統合的に探求していきたい。

そしてその探求に惹かれてしまうのは、はじめて酸素や二酸化炭素を知った時と似た感動が、そこにある気がするからだと思う。

(on 2016.3.11 facebook投稿を一部更新)

thank you as always for coming here!:)