正しいとき
自分が明らかに正しいと感じるとき、そこには何かワナがあるように感じる。人との関わり合いにおいて。
具体的にいうと、
なにかを話していて、誰にも反論の余地がないような正しいことや道理にかなっているようなことを口にしている(気がしている)とき、なぜだか突然不安になる。
そもそも本来的に人の在り方に正しさなんてあるのだろうか。
あなたは間違ってて、私は正しいと述べるとき、そこには何らかの基準がある。その基準が絶対的なことなんてあるのだろうか。
自分のもうけた基準で、誰かを裁くのって、なんだかとても心が削られる。
それはわたしが本来望んでいることではない。
もうひとつ具体的にいうと、、
誰かと言い合いになって、勝ったなぁと感じるようなとき、勝ったと感じる背景に何があるのだろう。
話合いというのは、必ずしも勝ち負けを決めるものじゃない。
本来的には、勝ち負けによって、どちらがより正しい存在かが示されるわけでもない。
なんだか勝ち負けという見方をいれると、自分をとても窮屈に感じる。そんな自分は好きじゃない。
人にはそれぞれが望むものがあって、大切にしたいものがあって、それが重なる分だけ距離は縮まる。関わり方も、それによって自然と定まってくるのかもしれない。
そこに正しさや善悪を持ち出すとき、その背景に隠したい不安や願望があるのかもしれない。堂々といえない感情なのかもしれない。
それがワナの正体なんじゃないかな。
正しさを気持ちよく説いてる自分には、どこかずるいものを感じる瞬間がある。心の弱さといってもいいかもしれない。
だから、これからも、「自分は正しい」という感覚には、よく注意していきたい。
そこにはワナがあって、そのワナをちゃんと解きほぐしてやると、また一回り自由な自分になれると思うから。
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