その夜を照らすのは【短編小説】【ヨーグルトのある食卓】

三方を壁に囲まれた小さな四角い部屋の中で、小夜子は閉じたドアに背を向けて膝を抱えて座っていた。
どうしてこうなったのかわからない。衝動的にスマホだけ手に取り中に入って鍵を閉めた。

わからない。わからないけど、今は。

抱えた膝に額を預けて目を瞑る。ドアの外からは、もう何分も赤ん坊の泣き声が聞こえている。ふぎゃ、ふぎゃ、と始まったそれは、次第に火が付いたようにボリュームを上げ、今は安定してけたたましい音を響かせている。早く、早く戻ってきてくれと必死に訴えている。

ドアの外に気配があり、小夜子は何度目かのか細い声を聞く。

「おかあさん」

その年齢の平均的な体格よりも小柄な奈々未が、トイレのドアの外で肩を落として佇んでいる様子が目に浮かぶ。

「ごめんねおかあさん」

やめて。ごめんねなんて言わせたいわけじゃない。言わせてるみたいじゃない。違う。違うの。私はただ。

「おかあさん」

泣き疲れたのか赤ん坊の声は途切れ途切れになっている。ああ、前回の授乳は何時だったか。今は何時だろう。スマホを見ると、リビングのソファに座ってぎこちなく俊太郎を抱っこした奈々未の顔が表示されたロック画面の上に、「17:57」の数字が浮かんでいた。

午後6時。一瞬、4歳と0歳の子供を抱えた母親が夜までにするべきあれこれを思い浮かべ、しかしすぐに打ち消した。頭が痛い。

「ねえおかあさん」

今週出張で上海に行った夫は、明日まで帰らない。朝、奈々未が幼稚園に行く前に必ず電話をかけてくる夫。ビデオ通話で子供たちの顔を見て終始目尻を下げて話しかける子煩悩な夫。
リビングの皮張りのソファに積みあがった洗濯物の山を思い出す。いつもなら夫が帰宅するまでに急いで畳まなければならない。お気に入りのソファに積みあがったままのそれを、夫は好まない。でも今日はいいや。昨日か一昨日、わからないけど何日かそのままにしている大量の洗濯物については忘れることにして、小夜子はまた背中を丸めた。

「おかあさん、おなかすいたよ」

諦めきれない、とでも言うように再び音量を上げた俊太郎の泣き声に負けぬよう、少し強い口調で、いや、強い口調というよりは助けを求めるようにして、奈々未は言った。

小夜子がトイレに籠る前、奈々未はお皿を割った。小夜子の大事にしていた優しい藍色の模様が入った陶器のプレートだ。二度目だった。結婚前に九州を一人旅したときに長崎の焼き物の町で奮発して一揃いを購入した、思い出深い皿だ。

わざとじゃないことなんか、十二分にわかっていた。奈々未が皿を落としたことも、それがよりによって小夜子の一番のお気に入りだったことも、もう4歳なのにトイレに失敗して絨毯の上にお漏らしをしたことも、健康を考えていつも手作りおやつを出しているのにそれじゃなくてポテトチップスが食べたいと駄々をこねたことも、夕方から始まって朝まで続く俊太郎の夜泣きも、何もかもわざとなんかじゃない。

でも私は。

「おかあさん、おなかすいた」

痺れを切らしたかのように奈々未はドアを叩き、最後の力を振り絞って俊太郎は最大音量を出す。

「あっちに行ってて!」

気が付くと大きな声を出していた。その声で全部かき消されるような気に一瞬だけなったけれど、やっぱり俊太郎は泣いていた。記録を更新し続けるかのごとく、小夜子を呼ぶその声は大きくなり続けている気がする。奈々未のドアを叩く手は止まっていたが、小夜子は止まらなかった。

「どっか行って、ひとりにして、お願いだから」

苦しい。息がしにくい。耳鳴りがする。そうか、これは俊太郎の泣き声ではなくて耳鳴りか。ならば安心だ。ご近所に聞こえて心配されることもない。迷惑かけることもない。通報されることもない。耳鳴り。ただの耳鳴り。

両手で耳を塞いでそのままどれくらいの時間が経ったのか。
いつのまにかドアの外は静かになっていた。

ガシャン、と遠くで何かが落ちるような音が聞こえた。悪い予感がして、小夜子は咄嗟にドアを開けて外へ出た。

廊下を抜けてリビングに入ると、正面の大きな窓が開いて風が吹き込み、カーテンがなびいていた。俊太郎はベビーベッドで寝息を立てている。

「奈々未」

ベランダに向かって呼びかけると、開いた窓にパッと小さな顔が覗いた。ほどけかかった三つ編みが揺れる。子供たち二人の顔を数時間ぶりに確認して、小夜子は罪悪感と共にほっと胸を撫でおろす。安心してベランダに近づくと、奈々未は「あ、きちゃダメ」と言って手の平をこちらへ向けて制した。

ベランダに並んだ鉢植えのひとつが倒れて土がこぼれていた。倒れた鉢は割れてはいないが少しひびが入っている。

「ごめんなさい」

奈々未はそう言って小さいからだをさらに小さくした。
ふとテーブルを見ると、プラスチックの皿がふたつ並んでいた。それから我が家の朝食に定番の青い容器のヨーグルト。よく見るとテーブルにはその中身がこぼれ、皿の周りに白い点々をいくつか作っている。

倒れた鉢植えは、ミントの鉢だった。

「ヨーグルトにミントのせるの、おかあさんすきでしょう」

「おかあさんもおなかすいたよね?」

「ごめんなさい、たおすつもりじゃなかったの」

年齢の割にはおしゃべりが苦手で舌足らずな喋り方をする奈々未が、たどたどしくひとつずつ説明した。

日が長くなってきたとはいえ外はすでにとっぷりと暗く、テーブル上の小さな白熱灯以外電気がついていない部屋も薄暗かった。ヨーグルトがこぼれたテーブルの上、冷蔵庫の前に置かれた小さな台、スプーンを取り出したときに開いたであろう開けっ放しの引き出し、俊太郎にかけられた薄手のブランケット。小夜子はひとつひとつを確認し、鼻の奥でツンとする何かをゆっくりと諫めた。

「おいで」

床に膝をついて奈々未の目を覗く。奈々未は小夜子の目をまっすぐ見つめ返し、でも少し躊躇う。

「なーちゃん、おいで」

腕を広げて待っていると、奈々未はたったった、と小さな足音を立てて駆け寄り、小夜子の腕の中に入った。

「ごめんね、なーちゃん」

腕の中でぎゅう、と抱きしめると、奈々未のふわふわとした細い髪の毛が鼻の下に当たって少しくすぐったかった。

「おかあさんいたいよ」

小夜子は「ごめんごめん」と言い奈々未を解放する。

「ヨーグルト、全部なーちゃんが用意してくれたの?」

小夜子がそう言うと奈々未は得意げに目を見開き「そうだよ」と返した。

「はい、これおかあさんのね」

小さな手に握りしめていたミントの葉をヨーグルトに飾る。

「お母さんブルーベリージャムかけちゃおっかな」

「じゃあなーちゃんははちみつにする!」

ついでにグラノーラも追加して、二人でヨーグルトをお腹いっぱい食べた。

「夜のヨーグルトもおいしいね」「またやろうね」と言い合っていると、ふぎゃあ、と俊太郎が飛び入り参加する。ああ、ごめんね。遅くなったね。小夜子は心の中で息子に詫びる。

「しゅんちゃんもおなかがすいたんじゃない?」

小夜子は奈々未を抱きあげてベビーベッドへ向かう。

「しゅんちゃんのお布団、なーちゃんがかけてくれたの?」と聞くと、奈々未は「うん、だっておなかがひえちゃうでしょう?」と言う。

こんなにいい子だ。優しいおねえちゃんだ。
小夜子は胸の奥がしくしくと痛む。

「ありがとう。ありがとうね、なーちゃん」
また奈々未を強く抱きしめた。

明日は三人で新しい植木鉢を買いに行こうね、と授乳しながらヨーグルトの残りを平らげている奈々未に話しけると、じゃあおとうさんのすきなバナナもかおうね、あしたおとうさんかえってくるもんね、と答えた。

奈々未の口の周りがヨーグルトでよごれていた。白いひげのようで少し笑った。
もう大丈夫。小夜子は小さくつぶやいた。

#ヨーグルトのある食卓 #小説 #短編小説 #掌編小説 #子育て #育児

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子供の就寝後にリビングで書くことの多い私ですが、本当はカフェなんかに籠って美味しいコーヒーを飲みながら執筆したいのです。いただいたサポートは、そんなときのカフェ代にさせていただきます。粛々と書く…!

ありがとうございます!飛び上がるほど嬉しいです!
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こっこ

コンテスト参加作品

参加コンテスト 2019年5月【ヨーグルトのある食卓】 2018年11月~12月【紅茶のある風景】 2018年10~11月【美しい髪】 2018年7~9月【旅する日本語】
2つのマガジンに含まれています

コメント6件

やだもうーーーーーーーーーーー。
ヨーグルトの用意とか。ありがとうなーちゃん。
これもうほんとにリアルアルアルアルですよ。
私は上の子が納豆もってきてくれたことあって…
もう10年近く前だけど、思い出しました。
人の記憶を呼び起こす文章、素晴らしいですね。
ミユキさん
わあわあー!ありがとうございます!!
そう言っていただけると嬉しいです😭
納豆~!なんだろう、落としちゃったあととかかな…(う、悲惨
子供ってふとしたときに「君、すごいな」ってなるときありますよね😢✨
こっこさん、はじめまして。とっても素敵な短編小説でした!
私もいま、ちいさな子供がいるので、小夜子さんの気持ちにすごく共感してきゅううと胸が痛くなりました。
誰も悪くないのに、それがわかっているのに……辛くなってしまうこと、ありますね。

奈々未ちゃんが用意してくれたヨーグルトを一緒に食べるシーン、大好きです。
あたたかい気持ちで胸がいっぱいになりました。

素敵な文章を、ありがとうございます。
菜月さん
初めまして!コメント&フォローありがとうございます✨
丁寧な感想までいただいて…すごく嬉しいです😭
子どもがいてとっても可愛くて、でもどこか自分てなんなんだろう?ってなったりしますよね😢
こんなことを繰り返しながら、自分も少しずつ大人になるのかもしれないなぁなんて思います…(なれてるか微妙😂
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