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読み聞かせの効用

読み聞かせが子供にどんないいことをもたらすか。
親子の手軽なコミュニケーションになる、読解力・表現力が上がる、感情が豊かになる等々、それはいろんなところで言われていることだと思うけれど、ここでしたいのはそういう類の話ではない。

読み聞かせの効用。
これは、読み聞かせを「する方」の、大人にとっての、いいことの話。

普段の生活の中で「日常会話以上の大きな声」を出す機会が、皆さんあるだろうか。

我が家には7歳の息子と3歳の娘がいて、放っておくと3分に1回くらいのペースで喧嘩を始める。ワーワーキャーキャーの騒ぎ声が、そのうちエ―ンエーンギャアギャアと泣き声に変わり、最後は私の怒号で事態を収束させるのが常であるので、だからまあ、私は大きな声を出してるっちゃあ出してるのだけれど、今話したい「大きな声」は怒号のことではないので、ひとまずこれは横に置いておきたい。

日常生活で大きな声を出す機会って、意外と少ない。大人になればなるほど減っていく。当たり前だ。いい大人が公共の場で声を張り上げていたら周囲にギョッとされるし、そもそも迷惑だし、家だとまあ歌ったりする人も(稀に奇声を上げたりする人も)いるかもしれないけど、少数な気がする(奇声は特に)。歌う人は結構いるかな?

私は子育てを始めて、読み聞かせをするようになり、意外なことに気が付いた。これはいい。気持ちがいいぞ、と。

私は日常的に絵本の読み聞かせをしている。
遊びの合間に読むこともあるし、図書館で読むこともある。あとは何かの待ち時間とか、それからこれはほぼ毎日なのだけど、子供の就寝前に読んでいる。私は結構読み聞かせが好きで、子供にせがまれても苦じゃないのでどんどん読める(めんどくさくてものすごい早送りで読んだりすることもあるけれど。子供からものすごいブーイングを受ける)。

でも以前、息子が通っていた幼稚園で読み聞かせボランティアをやっていた頃、周りのお母さんたちからよくこんな声を聞いた。
「家では忙しくてなかなか読んであげられないから、園で読んで子供と関われるのはいいこと」、「普段家では読まないから、こういうときに読んであげると自分自身の罪悪感が軽減される」などなど。
私は読み聞かせするのが普通だったので、家で積極的に読み聞かせをする人は多くないんだなぁと意外に思ったのを覚えている。

苦手意識のある人も、もちろんいるだろう。
恥ずかしい、下手だから、面倒くさい…

わかる。苦手なことは、極力したくないもの。
料理が苦手でも食べないわけにはいかないから作るし、掃除が苦手でもあまりにも汚い部屋で暮らすわけにはいかないので片付ける。そういう最低限の生活以外のところで、子供のためとはいえ、苦手なこと、わざわざしたくない。

でも読み聞かせの何がいいって、本気でやると自分が気持ちいい、ということ。
ただなんとなく流して読むと、長い絵本はなかなか終わらないし、苦になってしまう。そう思って、ふと思い立って、あるとき本気で読んでみた。

本気というのは例えば、

・普段の声より少し大きな声を出す
・声を安定させる(人に聞かせている、という意識を持って読む)
・地の文と台詞をしっかりと分ける(子供相手だし、と思ってすべてを大げさに読むと逆に平坦になってしまう。地の文はフラットに読むのがコツかなと個人的には思う)
・人物それぞれの気持ちを込めて読む(必ずしも人物ごとに声色を変える必要はない。それぞれの気持ちで読むのが大事。でも声色を変えるのは子供も楽しそうに真似したりするので、それはそれでいいかも)

など、そんなことに気を付けながら読んでみる。
するとどうだろう。「長いなー早く読み終わらないかなー」なんて思いながら読んでいたときに比べて、読み終わるのはあっという間だ。

しかも気持ちがいい。スッキリするのである。
いや、これはもちろん個人差があるだろう。別になんとも思わなかったな、という人もいるかもしれない。
でも、ほとんどの人はそもそも本気で絵本を読んだことがないのじゃないか。だから試してみる価値はあると思うのだ。つまらないなーと思いながら読むよりも、自分も気持ちいい、子供も楽しいなら一石二鳥だ。

小さい頃に自分で絵本を読んだり、小学校では音読をしたり、大人になって読み聞かせをしたりすることは、これまでの人生のなかで多くの人が経験してきていることだろう。しかし、「演劇をする」ことを経験してきている人は、かなり少数ではないか。あっても、幼稚園と小学校の学芸会で、人生に数回程度だろうか。

先日こんな記事を読んだ。

海外では、コミュニケーション力・表現力・集中力・想像力を高める「演劇教育」が、音楽や図工などのように芸術の科目としてあるのが一般的であること。その意味では日本は大変遅れていること。「演劇を観る」だけでもかなり教育効果が高いこと。しかしながら日本ではそれすらかなり少数であること、などが上記の記事で述べられている。

観劇に対するハードルは高い。
演劇経験者としても、趣味で観劇をする身としても、ひしひしと思う。
そもそもチケット代が高い。小劇場でも3000円ほどで、商業演劇ともなると1万弱になる。しかもアタリハズレが大きい。わかりにくそうなイメージが先行している。映画館で前評判の高い作品を鑑賞するのと比べれば、何をかいわんや、だ。

私の観劇に対する熱い思いはあるのだけれど、それについてはまたの機会を設けるとして、読み聞かせとの関連性に戻る。
特に演劇好きではない人の演劇との距離は遠いけれど、日常生活では人は何かしらの役割を常に「演じて」いるものだと思う。

例えば仕事の電話対応。受話器の向こうの相手が聞き取りやすいであろう声の大きさ、不快感を与えないトーン、言葉遣い、滑舌など、意識して電話しているんじゃないだろうか。
電話口での滑らかな喋り。軽やかな受け答え。スマートに対応できると、気持ちがいいな、と感じたりしないだろうか。

同様に取引先へのプレゼンテーション。これは人に見せる、聞かせる、魅力的だと思ってもらったり興味を持ってもらうことを目的としているから、日常のテンションで行うことの方が難しいと思う。
構成を工夫するのはもちろんのこと、声の大きさや抑揚に気を付けることは必須、多少なりとも芝居がかった喋り方が必要になることもあるだろう。

もっと言えば「父親である自分」、「母親である自分」、「会社員である自分」、「先生である自分」、「店員である自分」、「ライターである自分」など、役割を細分化していけば、何者でもない自分の割合など、ほんのひとつまみ程度になってしまうかもしれない。それくらい私たちは、何かの「役割」を演じて日々を過ごしている。

逆説的に考えれば、そういったコミュニケーションが必要になるからこそ、演劇教育というものが有効とされているともいえる。

読み聞かせを「本気で」しようと思うと、そんなコミュニケーション力を培うためのトレーニングにもなるような気がする。
そしてここが私は声を大にして言いたいのだが、やはり「気持ちがいい」というのが最も大事なところ。

普段の自分なら出さないボリューム、声のトーン。
自分じゃ絶対しない言葉のチョイス。
物語の世界に入り自分以外の誰かになることで、気づかないうちに自分にかけていた枷を取っ払うことができる
「演じる」ということには、そんな気持ちよさがある。

演劇をするのは相当にハードルが高いけれど、読み聞かせでなら。
手軽に、頻繁に、それを体感することができるのだ。
聞いているのは我が子だけ。恥ずかしさなんか感じる必要なし。上手く読む必要もなし。だって相手は子供だもん。ハードル下げてこうぜ。

最後に、我が家の息子7歳が、ここ2年ほど、寝る前の習慣としてもはや子守歌のように読み続けている(読むのは私)絵本を紹介して終わりたいと思う。

宮沢賢治『銀河鉄道の夜』



言わずと知れた宮沢賢治の名作。
少し難しいかな?と思いながら幼稚園のときに読み聞かせてみたらハマったようで、毎日読んでほしいと言われ、図書館で借り続けるのは気が引けるので購入。

子供向けに読みやすく書き直されているのでそれほど難しくなく、それでいてジョバンニとカンパネルラのやりとりのリズムや率直で透明な言葉たち、宮沢賢治の世界観はきちんと残っている。
適当に流し読みするとそこまで思わないのだけど、「本気で」読み聞かせてみると、切なくて切なくて、ラストには読みながら鼻啜ってる。(自分で読んで自分で泣くなや、って突っ込みはすみません受け付けません)

客観的に見たらいい大人が本気で絵本読んで泣くって気持ち悪いかもしれないけど、誰に迷惑かけるでもない、自分は気持ちいいからいいじゃないか。きっとデトックスになってるんだな。

ちなみに絵本にしてはかなり長いので、ラストにはだいたい子供は寝落ちてる。なので心置きなく鼻啜りながら読み終えることが多いのだけど、子供が起きてる場合はやっぱり恥ずかしいので、泣くのはギリギリ我慢する母なのであった。

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