そのとき世界は弾けた【短編小説】

ー今夜、私は彼の部屋で、彼の帰りを待っていた。

彼の好きな音楽も彼の好きな映画も彼の好きな小説も、もちろんこの部屋にはありすぎるほどあって、これまでの幾度かの訪問で時間をかけて、そのどれをも頭のてっぺんから足の先まで染み込ませるように貪った。
それはうら若い女子のハリのある白い肌が真夏に降り注ぐ強烈な紫外線を否応なしに吸収するみたいに、みるみるうちに私の一部になっていった。比喩ではない。本当に全身で、私は彼を形作るものたちに浸った。彼の世界を私の世界にしたかった。

待っている間にそういうひとつひとつを手に取って、今日までの時間を思い返してみる。

「わ、このバンド気になってたんだよね」とか「うそ、あのDVD家にあるの?見たい!」とか、6つも年下の男の子に白々しく話を合わせる自分を痛いなんて、そんなのもうわかりきってることだから気にならないし、おまえそれミエミエじゃんって誰かに思われることが痛くも痒くもないくらいには私はもうすっかり彼しか見えなくなっていて、むしろ気付いてよこんなにアピールしてるんだから、という気持ちもあるにはあったわけで、つまり端的に言って私はちょっとヤバイ女だった。

そのどのアプローチに対してもだいたい彼は「おー、いいよー」の緩い一言で応えてくれたけれど、それはどちらかと言えば受け入れるというよりも、周囲で頻発する突風をうまいこといなす海辺の防風林みたいな振る舞いだった。
なかなか彼の本心が見えなくて私は焦っていたのに、そのうち不思議とそれも気にならなくなった。交わす言葉が増え家にも行くようになって、彼の方から一歩、また一歩と距離を縮めてくれるようになったと私にはわかったからだ。

ちょっとヤバイ女から気になる女への昇格。特に用もないのにメールが来るようになったり、バイトの上がり時間が同じときには店でビールを買って一緒に飲みながら帰ったり。なんとなくお互いの予定を探り合って、シフトを合わせてみたり。
ドラマみたいだ。こういうのって、自然とそうなっていくんだな、なんて、恋愛経験の少ない私ですらそれこそ自然にわかってしまうくらい、私たちは決められていたように惹かれ合っていった。

ー繰り返すけど、今夜私は彼の部屋で、彼の帰りを待っていたのだ。

私たちをつないだ愛おしい時間を振り返ることはそれはそれは甘美な行為で、こうして初めて彼の部屋でひとりで彼を待つというシチュエーションは紛れもなく「彼女」のそれであると感じて、私はどうしようもなく満たされてしまう。

そこではたと今自分が何しに来たかを思い出し、慌ててうどんやら卵やら葱やらをスーパーの袋から取り出す。きっとろくに食べていないのだろうから具沢山の鍋焼きうどんにしようと思って、行き掛けにスーパーで色々と買い込んできたのだ。以前遊びに来たときに、まな板や包丁、基本的な調味料があることはチェック済みだった。
調理器具売り場で一人用の土鍋も調達した。我ながら準備がいい。自慢じゃないけどひとり暮らし自炊歴10年以上の私にとって、鍋焼きうどんくらい楽勝案件だ。彼の家で、という注釈がつくなら尚のことやる気も出る。

先週からシフトが一緒になっている今日をずっと楽しみにしていたのに、出勤したら彼は休みで心底がっかりした。すぐに携帯を開いて彼のアドレスを呼び出す。意味をなさないアルファベットの文字列すら愛おしくてしばらく眺めていると店長に名前を呼ばれた。一人じゃ回らないだろうから俺が代わりに来てやったんだよ、裏にいるからなんかあったら呼んで、と恩着せがましく言われ、愛想笑いでお礼を言う。

おつりを渡して「ありがとうございました」を言った後、客のいなくなった店内に毎回小さなため息を吐く。つまんないな。一緒にいられると期待していた分、会えないと寂しさが倍になる。
けれどお客さんがいないときに携帯を開くと彼からメールが届いていて、現金な私の心臓は瞬時に跳ね上がる。「風邪引いた」とだけ書いてある(絵文字も句読点もない)ので、メールを打つのもしんどいんだろうなと思った。なのに連絡してくれるなんて。不謹慎だけど嬉しくなる。

突然行って驚かせよう。
美味しいごはんを作ってあげよう。

もうこれしかないという名案をなんとか胸の内に押し込んで、早く終われ早く上がりの時間になれと唱えながら仕事をこなす。

ひとり暮らしの男の子にとってはなかなかありつけない美味しい家庭の味をご馳走して、マジすごいマジうまいマジ天才?ありがとう大好きだよ、なんて言われるところまで想像しながら、仕事が終わると何度か行ったことのある彼の家まで急いだ。

ーそれなのに何で、私は今こんな寒い夜道を、ひとりで歩いているんだろう。

火にかけた鍋焼きうどんがいい匂いを漂わせ始めた頃、洗い物を片付けていると玄関からガチャ、とドアの開く音がした。
台所から顔を出すと彼と目が合う。ニヤけたくなるのを我慢して小さく「おかえりなさい」と言うと、彼は目を丸くした。もう、何その顔。今すぐ天然記念物に登録する、私的天然記念物。絶対私が守ってあげる。

「どこ行ってたの?風邪大丈夫?鍋焼きうどん作ったの、温かいよ。食べる?」

彼が目を丸くしたまま眉毛を微かにハの字にするというこの世のものとは思えないくらいに愛しい変顔をしたので、今すぐ抱きしめたくなってしまった。うどんは後でもいいかな、温め直してあげればいいよね。だって今すぐ大好きって伝えたい。

「田中さん、なんで?」

「え?」

「なんでいるの?」

「なんでって」

「勝手に入ったの」

あれ?なんか、思ってた反応と違う。

「風邪だってメールくれたから。ごはん、食べてないだろうなと思って」

「いや、そうじゃなくて」

喜んでくれると思っていた。

「あっ、鍵開いてたよ不用心だよ。悪いかなって思ったんだけど、でも私ここ、何度も来たことあったから」

言い訳がましい。どうして?いいんだよね。だって私、彼女みたいなものだよね。もうほとんど、彼女だよね。

「でもねそれで助かっちゃった。外なら寒くて待ってるのちょっと辛かったかも」

そう言ってヘラヘラ笑う。笑いたいわけじゃない。返事はない。彼のあのハの字眉は嬉しい驚きというよりも招かれざる困惑の結果なんだと気が付いた。そのときだった。

「えー、もう。ちょっと、すご…」

知らない声だった。彼の後ろにロングヘアの女の子の横顔が覗いた。

「鍋焼きうどんって」

大ぶりのピアスが揺れている。笑ってる。

「え、コウがメールしたの?」

「いや、来たから、先に。具合悪いの?って。だから風邪ですって」

私が?先にメール、したんだっけ。

「ていうかさ、だから言ったじゃん、いくらすぐそこまでだからって、鍵かけないで出掛ける癖やめなよ」

わかってるよ気をつけるよ、と言って女の子を宥めるコウくんは、私の知っているコウくんじゃないみたいだった。

「え、誰?」

どうして聞いてしまうんだろう。

「誰って」

また少し笑って女の子が言う。でも私はコウくんに聞いてるの。あなたじゃない。

「コウくん、この人誰?」

「ていうかあなたの方が誰」

答えずにいると代わってコウくんが口を開く。

「史乃、こちら、田中さん。バイト先のコンビニの、先輩。よくライブも観に来てくれる」

「あー、はいはい。あれだ、コウのことが好きでよく押しかけてくるっていう」

「史乃」

「ねぇオバサン、気をつけて。これ犯罪だよ。人のうち勝手に上がり込んじゃいけないんだよ。おまわりさんに捕まるやつだよ」

犯罪、と言われて脈が波打つ。

「しかも鍋焼きうどんって」

笑ってる。つるりとした皺のない肌で。くっきりと口角を上げて。

「やめとけって」

冷えていく頭は、もう答えを知っている。

「ねぇコウくん、誰?」

本当は聞きたくなんかない。なのにすらすらと言葉が出てくる。消えゆく僅かな望みを託して。

「ああ、史乃。彼女」

カノジョ、と口の中だけで小さく繰り返す。

「ていうかめっちゃいい匂い」

彼女、が、ケラケラ笑う。

「史乃」

彼女。この失礼な、生意気そうなこの子が。

「私うどん食べたくなってきた」

鍋焼きうどんはおろか素うどんもまともに作れなさそうなこの子が。
彼女は濃いブルーに染まった爪をキラキラさせて、華奢な手首をコウくんの腕に絡ませて言う。

「ねえ寒い。なか入ろうよ」

コウくんの彼女。
若くて、細くて、派手なこの子が。

「ごめん田中さん。こういうのもう、ちょっと、なしで」

コウくんがハの字眉のまま言う。もうこれは、困惑ですらない。パチン、と耳元で何かが弾けた。

「あ、ごめん。うん。ごめんごめん、そうだよねそうだった」

笑える。大丈夫、私笑ってる。

「あれ、ほんと、ごめんなさい私、そりゃそうだ、鍋焼きうどんって、ねぇ」

アハハ、ねえ?と軽率な笑いで繰り返して、コートを羽織ってカバンを手にした。

「田中さん」

「あ、お構いなく」

二人の横をすり抜けて靴を履く。

「これ」

コウくんがスーパーの袋をこちらに差し出す。

「ああ邪魔だよねごめんなさい」

早く。早くここから消えないと。

「あ、うどん捨てて?土鍋はごめん、手間だけどそれも捨ててくれる」

お邪魔しました、と言って部屋を出る。もうコウくんの顔は見なかった。ドアの外には、来るときよりもひどく冷えた夜気が静かに横たわっていた。

ーそうだよね。そうだった。今夜私は彼を待っていて、そして私は彼の恋人じゃなかった。

コウくんのアパートを出て歩いて、歩いて歩いて、しばらくするとバイト先のコンビニがある商店街へ出た。お店の前を通るのは嫌だったから少し回り道をして歩いた。翌朝回収に来るであろうゴミ捨て場のゴミが山積みになっていて、私は無性にそれを倒したくなる。

手に持っている買い物袋には鍋焼きうどんを作った残りの材料が入っている。それをグルッと丸めてゴミ捨て場へ思いきり投げつけた。ふと我に返って周りを見回す。誰もいない。短く息を吐く。
普段しないことをしてみたせいか心臓が飛び出しそうに暴れているけれど、それは数時間前の胸の高鳴りのようなものとはほど遠くて、鼓動は速いのに悲しいほど温度がない。袋を投げつけてもなお頭の中からはあのハの字眉のコウくんが消えてくれない。

投げた袋が当たってもゴミ袋の山はびくともしなくて、そりゃそうだよなと思いながら近づくと袋の中身が散らばっていた。そのまま立ち去りたいのは山々だったけれど、私はたった今投げつけた袋を拾い上げずにはいられない。
袋の中では六個入りの卵のパックがほとんど割れていた。何個残っていたんだったかもわからない。ばりばりと砕けた殻の間から形の崩れた黄身がどろりと流れ出している。卵がこぼれ落ちないように袋を拾い上げ、さらに半端に残った葱とほうれん草が袋から飛び出て地面に落ちていたのでそれも拾って袋に戻す。こんなときですら常識的な振る舞いしかできない自分にほとほと嫌気がさした。あんなにコウくん以外見えていなかったのに。だからこんなことになったのに。

催眠術が解けるみたいにコウくんと過ごした記憶のすべてが急速に体の外へ広く薄く細かい粒子になって撒かれていくような気がした。

仕事を教えてくれたお礼にって覚えたばかりのレジを自分で打ってチロルチョコを買ってくれたこと、休憩中にイヤホンから音漏れしていた曲について聞いたら少し恥ずかしそうに自分たちのバンドの曲なんだと教えてくれたこと、そのくせライブでは髪の毛振り乱してなりふり構わずギター弾いてること、楽器を演奏しながら高く跳べる人達がいるのを知ったこと、次にお店で会ったときにライブの感想を言うとやっぱり照れて、そのあとの「いらっしゃいませ」がやたら大きい声だったこと。

CDやDVDを借りるために家に遊びに行くようになったこと、タバコを吸うときに目を細めること、夜勤終わりにいつも会う、早朝にあんぱんを買っていくおじいちゃんとの会話を実は楽しみにしていること、笑うと目尻に皺ができること、お腹が痛くなるくらいに笑うときは声が出なくなること、そしてそのどれもが私にとって初めて経験した愛おしさであること。

なんとか立ち上がったはずの体はまた言うことを聞かなくなっていて、拾い上げたばかりの袋を抱えてしゃがみ込んだ。最近新調したライトグレーのコートが卵で汚れたのがわかったけれど、どうでもよかった。

ー好きだったの。
ばかみたいだけど、好きだったの。

どれくらいの時間そうしていたかはわからない。ほとんど人通りはなかったように思う。もう終電もなくなるころだ。

帰ろう。立ち上がってぐしゃぐしゃの顔でそう思う。
持っていた袋の口を固く結び、商店街の角にある公園に入ってそこのゴミ箱に狙いを定める。一回で命中した。

月は見えないし吐く息は白い。好きな人はいない。
帰ろう。もう一度そう思った。


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子供の就寝後にリビングで書くことの多い私ですが、本当はカフェなんかに籠って美味しいコーヒーを飲みながら執筆したいのです。いただいたサポートは、そんなときのカフェ代にさせていただきます。粛々と書く…!

ありがとうございます!ゴミ出ししておきます!
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こっこ

閉じ込めるしかなかった想いを成仏させたくて言葉を吐き出す日々。誰かの物語は自分の物語でもあるし逆もまた然り/20代前半に演劇かじる。結婚前はPR関係のお仕事を少し/noteではコンテンツレビューやエッセイや短編小説を/すばる文学賞一次通過/note【紅茶のある風景】コンテスト入選

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コメント4件

いやもう、なんかもう。ぎゅうぅうううんですよ・゜・(ノД`)・゜・
ゆみっぺさん
コメントありがとうございます!
うわ、キッツーーー!ですよね…笑
こっこさん、こんにちは。
読みながら、もう苦しいというか。
早くスクロールして読みたいのに、来るだろう結末に対して恐る恐る読んでました。
ないだろうなんて言えない現実味が余計に。こっこさんの表現力すごいです。
こまいさん
うわー!めっちゃ嬉しいです、ありがとうございます!
え、うそ、来る来る…やだ…来る…ハッ、キターー!ってなりますよね笑
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