子育てエッセイが書けない理由をクドカンが教えてくれた件

クドカンこと宮藤官九郎さんのエッセイを読んでいたら、子育てについて書かれた回があり、思わず読み進めるのをやめて、思考の沼に落ちてしまった。

宮藤官九郎『いまなんつった?』

「親ってさぁ、自分でなるもんじゃないんだね。子供が親にしてくれるんだね♡」
(ドラマ『僕の魔法使い』より)

『僕の魔法使い』は宮藤さん脚本、篠原涼子さん伊藤英明さん主演のコメディドラマで、上記の台詞は主演二人のバカップルに子供が生まれた時の篠原涼子さんの台詞。

宮藤さんはオンエアから数年後に見返して、「俺、いい台詞書くなぁ」と自画自賛したとのことだけど、よく考えるとこの台詞を書いた時点ではご自身はまだ子持ちではなかったと、はたと気が付いたらしい。

その後娘さんが生まれ、丸3年ほど育児を経験した頃の心境が、こちら。

ごめんなさい!子供は親になんかしてくれません!
むしろ逆で子供と一緒にいると自分もどんどん子供っぽくなっていく。
散歩してたら頭の中は「座りたい」「休みたい」「タバコ吸いたい」。
お絵描きしてたら子供より先に飽きちゃうし、びっくりドンキーで子供のハンバーグ横取りするし…
(中略)
何故僕はあんな素敵な台詞が書けたのか?
思うに当時は子供が生まれて親になるという人生に幻想を抱いていて、その憧れに近い気持ちがあんな台詞を生んだのでしょう。
(中略)
謎の高熱や謎の夜泣き、謎の脱臼、鼻水吸引などを経験し、マロングラッセ大のウンチを何度か手掴みでトイレにポイした今、「子供が親にしてくれる」なんて、ちょっと優等生過ぎて照れます

ああ~~~!!
これを読んで、私は思わず膝を打った。
そうなんだよ、宮藤さん、そうなんだよ。
心の中でそう言って私は握手を求めた。天下のクドカンに。



専業主婦で二児の子持ち。今の私を端的に説明するとそれ。だからもちろん、noteにいる数多くのクリエーターさんのように、子育てエッセイみたいなものを書いてみたいなぁなんて、頭をかすめたこともあった。ほんっっっの一瞬だけど。でもできなかった。書こうと思ってパソコンに向かっても、一向に手が動かない。トボトボとした足取りで帰途につくケンカ後の小学生のような覚束なさで、少し考えてキーボードを叩いては、ダメだダメだ、とバックスペースキーを長押しする。その繰り返し。当たり前だけど書きたいことがないのに書き始めても書けるはずがないのである。

現在7歳男児と3歳女児を子育て中の私には、乳幼児期から学童期の入り口にいる子供の育児についてリアルな状況や感情があるし、子育てのことなら今この瞬間が一番臨場感を持って書くことができるはずだ。でも書けない。何故か。ずっと考えていたことの答えが、宮藤さんのエッセイにあった。

人はその出来事の渦中にいるときは、その物事を客観的に捉えられない。
うーん。いや、もちろんそうではない人もいる。
優れた客観性と観察眼、描写力をお持ちのクリエーターさんはたくさんいる。noteの子育てエッセイを読んでいればそれはもう一目瞭然。
だからこの主語は「人は」ではなくて「私は」か。

恐らく私は、あまりにリアルに感じていると、書けないのだ。
24時間365日、ずっと私は育児中の専業主婦だ。それについて書こうと思ったら、もうまな板の上の鯉じゃないか。全面降伏。白旗パタパタ。どうとでもしてください状態だ。私にはそんな勇気はない。

もしかしたらお仕事をしていたり、趣味として何かに没頭していて子育てや主婦業以外に自分だけの居場所がある人は、また違うのかもしれない。

今の私にとって子育てをしている自分を開示することは、100%まるっと自分を見てもらうことになる。それができない。
きっとほんの少しだけ取り繕って、書くことになる。本当の自分よりもほんの少しだけ優等生に書いてしまうことだろう
宮藤さんは実際に子育てを経験する前の幻想であの台詞を書いたとのことだけど、すでに子育て経験中であるのに私はきっと、現実の自分をオブラートのような薄~い幻想で包んで読者にお届けしてしまうことだろう。

こんなことがあったよ、こんな大変な思いをして、でもこんな気づきがあって、ああ、子供ってすごい、子育てって面白い。どこかでそんな定型文に当てはめて書こうとしている自分がいた。
会ったことのある人なんていないこの場所ですら取り繕うなんて。そんな文章になんの意味がある?そんなもの書く意味はない。そんなものを書いたらきっと、恥ずかしくて消えてしまいたくなる。そう思ったからこそ、私はバックスペースキーを押し続けた。

毎日毎日の子育てで、全部に意味なんかねぇよ。
全部に気づきなんかねぇよ。
あるのは「今日もなんとか乗り切った」、「今日は全然ダメだった」、だいたいそのくらいの狭い振れ幅を行ったり来たりの、日常だ。

私にとっては、宮藤さんが言うような「びっくりドンキーでハンバーグ横取り」しちゃったり、「マロングラッセ大のウンチを手掴みでトイレにポイ」したりするような、かっこ悪い子育ての方こそ、書く意味がある、と思った。

今の私が子育てエッセイを書いたら、かなりの確率で「子供が親にしてくれるんだね♡」の方、優等生側の文章を書いてしまうだろう。まったくの作り話ではない、ほんの少しの書き換え。優等生感をそこはかとなく漂わせてしまうと思う。

誤解がないように言っておきたいのだけれど、noteで見る子育てエッセイはどれも素敵なものばかりで、いつもうんうん頷きながら、ときに感心しながら、ときに声を上げて笑いながら、楽しませてもらっている。日常的なエピソードでありながらそれをエンターテインメントに仕上げてひとつの読み物として完成させる皆さんの筆力に、尊敬でただただ唸るばかりである。

言ってしまえば、私は自分のかっこ悪い日常を、エンターテインメントに仕上げる腕を持っていないということ。
きっと私の日常だって、守護霊みたいに、ジョジョのスタンドみたいに、宮藤さんがずっと横について口出ししてくれたら、ものすっごい笑えるものになるのかもしれない。いや、なるはずだ。

だって、思い返せばおもしろいこと、ものすっごいたくさんあるんだもの。
子供たちのしたこと、言った言葉、その思考、作ったもの、本当はたっくさんあるもの。

そこで気が付いた。
余裕が、ないんだなぁ。

目の前のことをもっと客観的に捉えて楽しめるようになれば、私も子育てエッセイが書けるようになるのかもしれない。

そうかぁ。

ただ「明るく優しい前向きな子育てをしなきゃいけない」なんて呪いのようなスローガンを掲げているとできる気がしないけれど、イライラしたり怒ってしまうような負の感情が湧いたときに、「ここで怒らずにうまく乗り切ったら、ひとつ子育てエッセイとして書けるかもしれない」って思ったら、なんか少しだけ、できるような気もしてくる。

一般的な理想論よりも、自分の欲望に寄り添った思考だ。

あとは、もっと単純に、「ハッ、今、宮藤さんが横にいたらこの状況どうやっておもしろくするだろう…どうやって笑うだろう…」って考えるのもいいかもしれない。

先ほどのエッセイの引用に戻る。その後はこう続く。

(中略)
経験に基づいた台詞が必ずしも良い台詞とは限らない。
むしろ未経験だから、知らないからこそ書ける台詞もあるんです。
もちろん経験しなきゃ書けないものもあります。
これは台詞じゃないけどグループ魂の新譜に『子供って臭いね』という曲が入ってます。
♪子供って臭いね
♪かわいいけど臭いね
♪臭かわいいよね
可愛さの中には臭さも含まれるという、これが今の僕の本音です。

………。

ああ!
面白い人の思考回路で生きていきたい!

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