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シンプルに、「好き」という気持ち 【江國香織『きらきらひかる』】

セクシュアリティのグレーゾーン

おっさんずラブにハマってあれこれ感想や考察を読んだこともあって、これまであまり意識的には考えてこなかった同性愛・異性愛、そしてその枠を超えたただシンプルに「人を好きになる」ということについて、最近少し、思い巡らせている。

知人に、もしかしたらゲイなのかな?という男性がいる。まあ既婚者なので可能性としてはバイなのだろう。彼は、とにかく周りの男友達のことを愛している。女性といるときよりも男友達といるときの方がアガるらしく、楽しくて楽しくて「うれション出る」発言がお決まりらしい。
それから大好きな男友達が自分たちの集まりに彼女を連れて来ると彼は不機嫌になる。女か。おまえはそいつの女なのか、と言いたくなるほどのある意味可愛げのある態度だ。
そういう精神的な意味だけでなく、(下品な話で申し訳ないが)同姓の「下(しも)」の方にも興味がすごいそうで、連れションするとガン見されるらしい。他にも彼の「男のシモに対する興味の度合いハンパないぜエピソード」はいろいろと耳にしたが、下品過ぎて本題と逸れるのでやめておく。
実際彼が一線を越えたことがあるかどうかは私は知らないしこの際どちらでもよい。多様なセクシュアリティが社会的に認められ始めた昨今、世の中には同性愛か異性愛か、という二択で割り切れないグレーゾーンの感情も、それこそ人の数だけ溢れていると、今更ながら気づくのだ。

実際振り返ってみると、ヘテロセクシュアルであることに疑いを持ったことのない自分にも、意外なことにグレーゾーンの感情はあった。
人生で三度、同姓に対して「これはなんだろう?」という感情を抱いたことがある。一度目は小学四年生のときに入ったバスケットボールクラブでキャプテンをしていた六年生の女の子。二度目は中学一年生のときに同じクラスだったやはりバスケットボール部の女の子。三度目はかなり時間が経ってから、結婚して子供を産んで、長男がまだ幼稚園にも入っていなかった頃に通っていた親子体操教室の女の先生。
彼女たちに対する私の気持ちは、明らかに他の女友達や女性の知り合いに対するそれとは違っていた。「憧れ、羨望、自分にはないものを持っている」など、理由を考えてみると理屈でも何となく説明はついた(私は運動音痴なのでスポーツ万能な人が常々憧れの対象)。でもそれだけじゃない、会うとなんだかちょっとドキドキする、近寄りがたくて話しかけるのは緊張してしまう、ついつい目で追ってしまう、など、普通に異性に恋するのと似た感覚を持っていた。
不思議なことにどの女性も共通した雰囲気があって、どの人も可愛らしい女の子タイプというよりは、「スポーツ万能でハキハキ元気いっぱい、見た目に柔らかい空気感はありつつも芯はしっかり一本通ってます」的女の子。どうやら同姓に関しては、私にとってそういう人がタイプのようだった。「女の子だから好き」なのではなく、「そういう雰囲気の人が好き」ということだ。
けれど私はその感情をそれ以上どうこうしようとまでは思わなかったし、普通に男性への恋愛感情の方がすんなり腹にストンと落ちたので、当然のように異性愛しか経験してこなかった。けれどもし、例えばおっさんずラブのはるたんのように、好きだと思う同姓(つまり牧くん)から迫られるようなことがあったら、もしかしたら困惑しながらも受け入れる、というはるたんの経験そのままのことが起こっていたとしてもおかしくなかったかもしれない、と思う。

LGBT問題が身近になった今だからこそ読むべき作品

江國香織「きらきらひかる」
主人公の笑子はアル中、睦月はホモで恋人あり。そんな二人はすべてを許しあって結婚した、はずだったのだが…。セックスレスの奇妙な夫婦関係から浮かび上る誠実、友情、そして恋愛とは? 傷つき傷つけられながらも、愛することを止められないすべての人に贈る、純度100%の恋愛小説。 (Amazon内容紹介より)

精神的に不安定でアルコール中毒の笑子はヘテロセクシュアル、笑子の夫で医者の睦月は幼馴染の紺という恋人がいる、つまりホモセクシュアル。
笑子は睦月にとって自分は性的対象ではないことを承知で、だからもちろん抱いてはもらえないことを承知で、そんなことは取るに足らないことで私は睦月のことが大好きなの、というそのシンプルな気持ちで、一緒にいたいと思い結婚している。
一方睦月は、笑子を抱くことはできないしもちろん子作りもできないが、繊細で壊れやすく鬱になるととても厄介な笑子のことを、とても大切に愛おしく思っている。
相手を必要とし自分も必要とされる関係でありながらも、周囲からの言葉や自分への負い目などからすれ違い、普通ではない自分たちのこれからを思い悩む。
睦月は初めからゲイというわけではなかったようで、「きっかけは紺」と笑子に話す。きっと睦月もただ紺という人間に惹かれただけで、男なら誰でもいいわけではないだろう。おっさんずラブで言えば、「きっかけは牧」と話すはるたん、ということになる。

私はこの作品が大好きで、初めて読んだ高校生のときに衝撃を受けて以来、何度も読み返している。江國さんの文章は優しくて私たちを包み込んでくれるように温かい。かと思えば直後、張り詰めた氷の薄い膜がパリンと割れてそれはもう二度と戻らないことを告げられるような、冷ややかで鋭利な言葉も突き付けてくる。そのバランスが絶妙で、私はその度泣きそうになる。
江國さんの描くキャラクターはいつも、繊細で、可愛らしく、すっきりしていて、実は結構不誠実だったりもするのだけれど、とにかく生きることに切実だ。江國さんの紡ぐ言葉たち、そしてその物語のなかで生きるキャラクターも、私にとっては唯一無二に魅力的なのだ。

92年に紫式部文学賞を受賞した本作。25年以上前にすでにこんなにフラットにセクシャルマイノリティを描いていた江國さんに対して、畏敬の念を抱かずにはいられない。

ただ好きなだけ、それでいい

つらつらと書いてはみたものの、何が言いたいわけでもない。
結局、「人が人を好きになるのに性別も年齢も関係ない」というおっさんずラブのマロの台詞にすべてが詰まっているので私が何を偉そうに言うでもないのだ。
人が人を好きになること。これは本当に素敵なことだと実感を伴って思う。私も性別は関係ないが、ままならぬ恋のひとつくらいは経験した。素敵なことだけれど苦しいことでもある。でも、好きにならなければ良かったなんてことは思わない。度々で恐縮だがおっさんずラブの言葉を借りてこの記事を終わろうと思う。

「きみに会えてよかった」

読んでくれてありがとうございます。
また次も、なんてことない個人的な気持ちを、好きな作品と共に書きたいと思います。

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子供の就寝後にリビングで書くことの多い私ですが、本当はカフェなんかに籠って美味しいコーヒーを飲みながら執筆したいのです。いただいたサポートは、そんなときのカフェ代にさせていただきます。粛々と書く…!