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幸せとはなにか

迷走ぶりが見て取れるであろうnoteです^^


4月
これからの未来をどうやって生きるか、
どんな道を進むか、考えた
一ヶ月、ずーっと考えた

結果、観光分野で途上国の経済活性化に貢献する
それを目指すことに決めた

安定した企業に入って、穏やかな幸せを手にする道も想像してみた
それが一番手の届きやすい幸せだと思った

でも、その生活を手にすることができたとしても、私の頭の片隅には、地球の裏側で飢えに、紛争に、暴力に、苦しむ人の存在があって、見て見ぬふりみたいに、そのことを知っているのに何もせずに自分だけ幸せに過ごすことがどうしても許せなくて、きっと後から何もできなかったって後悔すると思ったから、あえて難しい道に進む決断をした


小学校卒業直前の、先生や親に感謝を伝える会
将来の夢を一人ひとり発表していく時間
私は「青年海外協力隊になりたい」と言った。

そのちょっと前に授業で習って初めて知った協力隊。
直感的に興味をもったのを覚えてる。
あのころから、何も知らないなりに、平和な世界を願ってきた。

私のひいおじいちゃんひいおばあちゃんは被爆者だから、その一代上は今もまだ行方が分からないままだから、物心ついたときから戦争、原爆の話はよく聞かされていた。争いごとのない世界を望む大人が周りに沢山いた。

多分、私が世界中の平和を望むようになった一番初めのきっかけはここにある。


でも実際、そんな簡単な話じゃなかった。当たり前だけど。

大学では国際政治の勉強をしてきた。
日中、日ロ、日米、EUとエリアごとに見たり、概念を実例に照らしてみたり、、紛争の原因とか国際機関の研究とか、色々やった

でも、残念ながら、国際情勢のからくりが紐解かれる度に、世界全体に平和をもたらすことは困難だと実感させられた
国という区分けがある限り利害は対立するけど、国がないと秩序は保たれない
そしてそれを補う国連の限界、、、

貧困がある限り、争いは起こるし、争いが起こるから貧困から脱せない
教育も公衆衛生も難民もみんなそう

人々はまずはそういう事実を知ることが大事と言うけれど、知ったところで何も始まらないじゃん、って悶々とする毎日で、
何かしらで平和に貢献したいと思いつつ、そういう政治的アプローチで平和を目指すのは私には無理だと思った

他のアプローチを探す中で、1回切りの人生を楽しむというモットーと両立させるには自分の好きを生かせる観光しかないと考え始める。
観光開発、観光プロモーション。
観光がもつ経済効果の大きさを考えると、上手くいけば効果絶大。
(まあもちろん、途中で争いが起これば全てゼロからのスタートになってしまうんだけどね)

というわけで、それを意識して半年進んできて、今、今になって、
現地の人々はそれを本当に望んでいるのか、という疑問が頭に浮かんでいる

だって日本に住む私から見たら過酷な状況に見えても、彼らにとってそれは日常で、それ以上の生活も知らずに、今を楽しく生きている

現地の様子を動画で見ても、子どもたちの目はキラキラしていて、大人も足を海に入れながら、にこにこで” Life is simple.”と言っている

物理的平和と、幸せは違う。
紛争下の人々は別にして、
生活水準が高くなくても、幸せを手にすることはできる。

そんな気がしている。

下手に観光客を呼んで、その土地のカルチャーが失われてしまったら、
観光客の増加でホテル、飲食店などなど開発が進み、景観が損なわれてしまったら、
彼らは何を思うだろうか?

例え、雇用が生まれて安定した収入が得られるようになったとして、さらにインフラの整備が進み、便利な生活を手にすることができたとして、それで本当に彼らは幸せになれるのだろうか?

当事者がもつ幸せという価値観と外野の考える平和。
ここに齟齬があるような
ちょっと技術が進んだ国にいるからって、勘違いしちゃいけない。決めつけてはいけない。

支援側の価値観を押し付けたら上手くいかないって、NGO職員の人が言っていたのを思い出す
まずは徹底的にコミュニケーションをとり、相手のニーズを探ることから始めるって


これは観光開発でも応用できますか?
応用したら、幸せと観光開発を両立できますか?

はぁ~難しいね、

アイデンティティのゼミに所属しているものでして、、、

観光地開発は住民のアイデンティティにどんな影響を及ぼすのか

これ、卒論のテーマにしようかな








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