○○推しを辞めてみる

⚠腐女子、夢女子の話題あり

推し活の弊害

推し活、オタ活をしていて、弊害だと感じることがある。それは自分の心の動きや行動が、その○○推しという自分の所属に制限されてしまうことだ。自分の中での理想の○○推しの姿、というものが出来てしまい、それに寄せるような考え方、行動、発言をしてしまう。そして、自分の本心が疲弊し、その推し、ジャンル自体嫌いになってしまうのだ。

例1) 𝖢𝖯解釈を1つに定めようとする

𝖢𝖯の解釈。どっちが攻めでどっちが受けかという基本事項から、相手と関わる時のそのキャラの態度や性格、発言、なぜ愛し合うようになったのかといった𝖢𝖯のルーツまで、1つの𝖢𝖯は様々な方面から解釈することが出来る。
二次創作をする腐女子は、その解釈と言うやつを一人一人が持っていて、その解釈の上でそれぞれの妄想や創作をしている。
と、私は考えていた。
もともとは自分の解釈なんて、特に意識していなかったのだが、界隈にいるうちに、解釈違い、や、地雷、などの言葉を聞くようになり、解釈という存在を知ったのだ。私は二次創作をする前に他の人の二次創作を読んでいて、そこから萌えるシチュや2人のお互いへの思いなどを見つけ、自分の好きな解釈(妄想や創作の元になるもの)、ができていった。
だが、他の人との考えの違いや、自分の考えの浅さなどが気になり、自分の(好き)そのものであったはずの解釈が、「ここまでつきつめてあった方がすごい解釈」「原作をちゃんと読んでいるならこの解釈にならないのはおかしい」と言うように、オタクの好きの質を図るようなものに、自分の中で意味が変わっていってしまった。誰かの解釈違いであることを恐れ、疲れ果てた。私の解釈は、自分の勝手な考えを正当化するためのもので、他の人の解釈は全て正しい。そんなふうに考えて、界隈にいるのが息苦しくなった。
だけど、界隈からはなれて、色々な記事を読み、解釈なんて、それ自体一つの作品のようなもので、原作を読んで解釈している時点で、全て一律間違っているのだ、と言うことに気がついた。正しい、というのは原作だけで、オタクの解釈に上下は無いし、そもそもオタクにも上下は無いのであった。
よく考えてみたら、BLでは無い作品をBLにしている時点で明らかに間違っているし、その2人のねじ曲げ解釈の高尚さを競うって、何で馬鹿げた意味の無いことだったんだろうって、今なら分かる。別に解釈なんて、なくてもいいんだ。自分はこんな考えで2人を好きでいます!なんて、明確に表明できる必要はなかったし、誰かの解釈違いになることが犯罪なわけでもなかった。私はただ、推しカプで幸せになればよかっただけだ。

例2) 愛の大きさを行動で示すようになる

グッズを沢山買う。公式の展開に沸くツイートをする。推しイメージのものを買う、推しに関連したことをする。それ自体は、とても楽しいオタ活の醍醐味で、私もそれらが好きだ。だが、時折、優先順位が逆転することがある。すなわち、「○○が好きすぎて、○○しちゃった私」になりたいが為に、それをするようになるという事だ。オタ活のためのオタ活、とでも言うのだろうか。オタ活をしたいから、何かをすきになる。同人誌を出したいから、推しカプを作る。愛があることはいいことだ。なにかに夢中になっている人はかっこいいし、それになりたい気持ちは私にもある。だが、結果的に私は、オタ活のためのオタ活、を、続けることが出来なかった。なにかに狂っている自分、に最初はときめくことが出来ても、オタ活にかかる労力と、自分の本当の推しへの愛情が釣り合っていないことを無視できなくなり、ある日突然疲れて辞めてしまう。
推しは落ちるもので、作るものじゃない。推し活は衝動的にするもので、義務やステータスじゃない。自分の幸せのために、覚えておこう。

自分のスタンスが定まっていなくてもいい

自分の好き、が1番大事。
正しいとされる推し方じゃなくていい。
別に狂ってることは偉くない。
推しで幸せになることが1番いいこと。
そして、何かを好きになったからって、○○推し、って名乗らなくていい。
好きって気持ちがあるってことが全てだと思うから。

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