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[プロレス] 私的プロレススーパースター烈伝(90)青柳政司

ベスト16

今回はプロレスへの参戦活動で知られ、数多くの団体を渡り歩いた、青柳政司館長のお話です。

青柳館長は1978年、22歳の時に他流派でありながら極真会館主催の「第10回オープントーナメント全日本空手道選手権大会」に出場され、ベスト16の成績を残しています。

1979年に空手道場「誠心会館」を設立します。

格闘技の祭典

1988年に開催された「格闘技の祭典」からオファーがありトーナメントに参加されます。しかし、惜しくも一回戦で一本負けします。

1989年の「格闘技の祭典」では、大仁田厚選手と異種格闘技戦で対戦し、子ども時代から憧れていたプロレスとの接点が生まれます。

1989年10月6日に行われたFMWの旗揚げ戦における大仁田選手との再戦で館長は正式にプロレスデビューします。

対ライガー戦

1990年6月12日、新日本プロレスに参戦し、獣神サンダー・ライガー選手と異種格闘技戦を戦ったのを期に新日本に定期参戦します。

このライガー戦は生観戦していますが、1R3分で無制限ラウンド。引き分けなしの完全決着戦。関節技も投げ技もOKの何でもありルールでした。

レフェリーストップとなったこの試合は、壮絶な喧嘩マッチの末にライガーさんが勝利しました。

今でも福岡国際センターを包んだ怒号のような大声援は、忘れられません。

この試合は、ライガーさんだけでなく、館長のベストバウトだったと私は思っています。

平成維震軍を経て

新日本にそのまま参戦していた館長は、1992年から門下生を率いて越中詩郎選手と抗争を繰り広げ、のちに越中選手と反選手会同盟、のちの平成維震軍を結成します。

1994年に新格闘プロレスを旗揚げし、エースとして異種格闘技色の強いプロレスを展開しました。

その後、WWFマニアツアーに参戦後、東京プロレスやレッスル夢ファクトリーを渡り歩き、2000年からプロレスリング・ノアに旗揚げ時から参戦します。

青柳館長の現役ラストマッチとなったのは2021年8月15日、FMWE大阪大会でした。

打ち上げにて

さて、館長のご生前、私は2014年8月9日に開催されたプロレスリング華☆激の大会後、打ち上げに参加させていただき、館長と越中選手とお話させていただきました。

臨席させていただいた館長は、非常に物腰の柔らかい方で「左目が見えないので、おかしな姿勢になってしまいますが、すいません」といちファンでしかない私にも非常に丁寧に接してくださいました。

館長からバイク事故で、腰の骨を骨折してからの、プロレス復帰までの話を聞かせて頂きましたが、すでに片目が見えず、腰の骨を折っているのに、それでもプロレスのリングに戻ってこようという館長のプロレスへの壮絶な執念と愛には言葉を失いました。

メインイベントでも

この日のメインイベントでも館長は往年と変わらないファイトを繰り広げ、試合後アステカ選手が「あの二人をこえていかないといけないんだよ。でもメジャーの選手とやると楽しいだろ?俺たちはあれを目指そうよ」と自身の奮起も促していたのが印象的でした。

館長とお話しできたこの一期一会の夜も私とっては家宝になりました。

館長本当にありがとうございました。



両親2人の介護を一人でやってます。プロレスブログ「せかぷろ」&YouTube「チャンネルせかぷろ」主宰。現在ステージ2の悪性リンパ腫と格闘中。