人を大切にすること。自分を大切にすること。

昨日、ある場に出席して思った。
何か自分の思いや必要なことを見失い、言うべき事を言えなかったなと。

今までもそういうことは多かったと思う。
私は臆病だ。人から攻撃されるのが怖い。否定されるのが怖い。
だから言いたいことを言わないことも沢山あった。
でも、それでは後悔しないか。周りの人を大切にしたいという思いよりも、自分を守ることを優先したら、後悔しないか。
自分が本当に大事にしたいものを大事にする事が、自分を大事にすることにつながるのではないか。

そして、私は、何を大事にしたいのか。
私にとって、大事なことは何か。
どんな形にしろ、一生懸命生きている人を応援したいということなのではないか。
人をないがしろにすることは嫌いなのではないか。
そういう場や人にどうにも馴染めないのではないか。
(もちろんそういう行動をとる人にも背景があって、状況があって、その人を悪人と思うわけではない。その人の行動・言動の否定と、その人自体を否定することは、区別したいと思う。)

もしかしたらそれは自分勝手な動機なのかもしれない。
懸命に生きている不完全な存在が尊重されてほしいと思うのは、
私もとても不完全で、でも尊重されたいし、安心していたいからかもしれない。
みんなが安心な方が、私も安心だからかもしれない。
私は、あまり強くないから、みんなが幸せそうで、笑顔でいてくれることが、とても力になる。だから患者さんの笑顔で、少し和らいだかなという表情で、とてもホッとするし、嬉しい。(ただ、治療はその時その方が和らぐことだけが目標ではなく、その方がその方の人生を生きるためにあるので、一時的には和やかではなくなることもあり得るけれど)
それは、もしかしたら患者さんのためではなく、自分のためなのかもしれない。

でも、これは私に限ったことではないかもしれないと、書きながら思う。
人は身体的能力が他の動物に優っているわけではないから、社会というものを作ってきたのだろうと思う。そして集団の安全が、自分の安全に繋がることを本能的に知っているのだろうと思う。

それが悲しい形で出てきてしまうのが、機能不全家族だ。その中で子どもたちは、力のない自分の安全のために、自分の気持ちを殺し始める。親という、その時の権力者に出来るだけ穏やかでいてほしいと無意識に願い、自分の行動を調節する。子どもだから時々は自分の気持ちがそれでも出る。それを否定され、そんな時に家庭が荒れ、そして自分の気持ちを押し込める癖は強化される。

周りの平穏を願うこと。
でも、それがどう工夫しても自分の気持ちを押し殺さないと出来ない状況である時は、
出来ればその状況から離れた方がいいのであろう。その典型例は虐待であり、DVであり、ハラスメントだろう。
離れるということは、幼い子供にとって難しいことのように、しばしば大人にとっても難しいことなのだけれど。

話が散らかってしまったけれど、きっと弱い私は大切な人や周囲にいる人たちに、安心してほしい。その中で安心したい。そして、なぜか遠くにいる人にも笑顔が増えてほしい。それは直接の私の環境には関係ないはずだけれど、人が笑顔でいてくれると想像するだけで、幸せに感じる脳の仕組みがあるのではないかと、私は勝手に思ってしまう。あ、そうか、それは社会全体の安心と繋がる、と感じるからなのかな。みんなが安心な社会で生きたいという、思いなのかな。

周囲の安心と、自分の安心を、最終的に叶えられること。
ただ、矛盾するようだけれど、そのプロセスには紆余曲折がつきもので、そのためには小さな勇気が必要だったり、一時的な痛みを引き受ける覚悟が必要だったりもする。
それは、自分を粗末にする、自分をいたずらに追い込むことでない。
その勇気や覚悟が、自分が大切に思うことを大切にすること、自分を大切にすることに繋がっていることがとても大切なのだと思う。
そうでないと、もしかしたら共依存のようなことになってしまうから。

周りの幸せと自分の幸せは、きっと切り離せないのだと、当たり前の結論に辿り着く。
周りの幸せのために自分の幸せを犠牲にすることもまた違うのだとも、私の中では思う。

自分にとって大切なことに立ち戻りながら、今日を生きたいと思う。

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