意味は分からなくても今日も生きてみよう。そう思う。

今日も何とか起きた。
いつもの日常が始まる。

昨日は早く寝たのだけれど、何だかぼんやりとした朝。
毎日中途覚醒はあるのだけれど、おとといの回数より少ないし、比較的眠れたような気はする。でもアラームが鳴って、それを消してもしばらく起きなくてはいけないことが、ピンとこない感覚というのだろうか。
いや、起きなくちゃいけなんだったと、起きて、リビングに降り、そうだ、お弁当を作らなくちゃいけなんだったと、動き出す。
毎日作っているお弁当なのに、作り始めは何だか現実感がない。ぼんやりと、これやらないといけないんだよな、とおかずを温めるために作り置きのおかずをフライパンに移し、温める。お弁当箱に詰める前に冷めるように他の容器に移す。そうか、これはいつもやっている、これがないと娘たちが困ることだったと、少しずつ感覚が戻ってきた。
そのあと洗濯機を回し、洗面し、着替え。
今日締め切りの生活クラブの注文をし忘れていたことに気がつき、ネットで注文する。
あ、荷物の不在通知の再配達の日時指定しないと、と思い出してする。
(こういうことがネットで全部できるのは有難い)
そして今。
この繰り返しに何か意味があるのだろうかと何だか思ったりしつつ、この繰り返しが生活というものなのかなと思いつつ、少し覚醒した状態で、今書いている。

人が生きている意味は、なかなか私にはわからない。
こんな私の日常の繰り返しがなくても、社会は動いて行く。

こんな時、いつも患者さんたちが浮かぶ。
葛藤を抱えて、生きることを放棄したい衝動に時にかられ、
生きる意味のわからなさに途方にくれている方々。
その方たちにお目にかかり、どうして生きるのか答えは出ないけれど、
出来たら、小さくても喜びを感じていただいて、生まれてきてよかったかもしれないという瞬間がこの方に訪れますようにと、いつの間にか願う気持ちを思い出す。
そして、私もだと、その方々に願うように、自分にも願ってあげようと、そう思う。
そう思いながら、出発前の最低限の家事をし、クリニックにたどり着き、
患者さんたちと会い始めると、そのことに集中できる有り難さ。

いろんな意味で、診療で出会う方々に支えられているのだと思う。
お目にかかっているその時も、お目にかかっていない時も。
私は、それに支えられて、今まで生きてきたなと思う。

私の診療にもどんな意味があるのかわからない。
でも、私の中では、この仕事と、今まで出会い、今であっている方々への恩返しになるといいなという気持ちはどこかにある。
前もツイッターで書いたけれど、恩送りかなと思う。
診療は情緒だけではできないし、いつも温かい雰囲気だけではない。
その方に必要なことをするために、張り詰めた空気になる時もある。
その中、自分の中で起こっていることを見失わずに、目の前の方の状況を可能な限り理解し、必要なことを判断して行くというのは、ある種の冷静さは必要。
でも、そういう全部を通して、目の前の方を尊重できたらと思うし、
それが私にできる、恩送りだろうと思う。

こうやって、こんなことを思いながら、今日が始まる。

意味はわからなくても、今日も生きてみよう。そう思う。

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