受け取ることの難しさと心からの感謝

昨日は沢山のお祝いメッセージをいただいて、とてもとても嬉しかった。なのに、戸惑っている私がいる。私なんかがこんなにたくさんのお祝いをいただいていいのかと、私はこんなにお祝いの言葉をいただくような人ではないのにと、思ってしまう私がいる。ちょっぴり受け取るのが怖いみたいだ。
そうか、私がツイッターをお休みした一つには、私のような人の言葉が届くのが嬉しい反面、私のような人の言葉がある程度の数の方に届くなんて、なんだか自分の小ささを考えると戸惑ってしまうとというそういう側面もあったのかな。

でも。

患者さんに思うことを思い出す。
自分なんて、幸せや喜びを受け取れるような存在ではないと、それらを求めつつも、諦めている方。それを受け取った途端、それ以上の失望がやってくるのではないかとどこかに怖さを持っている方。安心や安全がない中で生きてきた方は、安心して受け取るということが時に難しい。不意に襲ってくる様々に、何も用意しないまま晒されるよりも、構えていつでも対応できるようにしておかなければと、そんな姿勢が身についてしまう。だからいつも緊張が抜けない。
生活保護という道をなんとか選んだある方は、その生活ももちろんギリギリなのだけれど、その前はもっとしんどい生活をなさっていて、そこから抜け出し、ストレス源からは距離を取れるようになって1年になるけれどまだまだ緊張の毎日で。緩むということ、安心するということが、どんなに難しいかを知らされる。
その方の中には、こんな自分はいつも批判されて、非難されて当たり前だという感覚があって、1人でいても、その批判する人物の声を聞いているような、そんな感じがある。
このあいだの外来でもその声の話になって、無意識に生まれているその声に気づくにはどうしたらいいんでしょうね、その声が優しい声になったらいいのだけど、気がついて言い換える練習方法を探してやっていきたいですねとお話ししていたのだけれど。
そして、その方に、色々模索する中で出会った人たちの気持ちを、どうか受け取ってほしいと願う。好意を差し出されても、どこか警戒して本当なのかと思ってしまうその方。もちろん、援助する側も人間で、100パーセント頼れるわけではないかもしれない。でも、生保にたどり着くまで、仕事の枠を超えて協力してくださった方々がいらした。思いが全部伝わるわけではないし、時にトンチンカンな応答もあるけれど、基本的に応援の気持ちを持っている援助職が、クリニックを含めて今もある。

まとまりがなくなってしまったけれど、時に受け取ることは難しいけれど、幸せを受け取る資格がない人は、誰一人いないと書きたかった。今現在大変で、そこから遠くにいると感じていらっしゃる方も多いと思う。でも、その方々に小さな喜びが差し出された時に、どうかその喜びを見逃さず、受け取ってほしいと思う。もし、その苦しさが和らぐ時が来たら、それを受け取るのは怖いこともあるかもしれないけれど、でもその流れを受け取り、その流れに乗ってほしいと思う。
今まで困難が大きかった人ほど、そういう流れが来て、受け取る時が来てほしいと思う。

そして、小さな苦労しかしていない私にも与えられた、昨日と今までのみなさんからの言葉を私も受け取らせていただこうと思う。
自分を受け取る資格がない人だと思わないようにしようと思う。
理不尽さには声をあげていいし、温かさは受け取っていい。
誰もがそういう存在で、私もその一人だということを忘れないでいたいと思う。

前置きが長くてごめんなさい。

だから、皆さん、本当にありがとうございました。
そしてこれからもよろしくお願いいたします。

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