幡野さんのcakes(京都の放火事件が起きて、世間からの誤解に怯えています)を読んで思ったこと(2)

そして、この予測のつかなさ以外に、精神疾患は、やはり偏見を持たれているように思います。
統合失調症であれば、怖い。
鬱や不安障害の方は、弱い、甘えている、意志力の問題だ(念のためですが、私は弱さは大切な力だと思っています。ただ、一般的にはまだまだ否定的なニュアンスで使われることが多いかと思います)。等々。

社会の余裕の無さと、知らないが故の偏見と、それが相まって、精神疾患の方は追い込まれやすい。そして生きづらい自分がいけないのではないか、と自己否定に傾きやすい。他者からの視線。そして他者の視線を内在化している当事者の方自身の自分への視線。それらが、更なるストレスとなり症状の悪化につながることもあります。そんな困難をどうしたら少しずつでも、減らしていけるのか、、そういう問いは常に私の中にありました。

そんな中で読んだ幡野さんの記事でした。

幡野さんの記事中に
「ただ、誤解することを否定していたら、健康な人は考えることもやめてしまうかもしれません。「ギャーギャーいわれるくらいなら、オレ関係ないし、よくわかんないし、ほっとこう」という具合です。
ぼくは誤解を解いた先にあるのが、理解だとおもっています。そして理解が偏見を解消するとおもっています。逆にいえば誤解を解かなった先にあるのが、偏見だとおもいます。」
と、あります。誤解を解いた先に理解があり、解かなかった先に偏見がある。でも誤解を持つことを禁じるのも、また違うのではないかということかなと思います。

私は少し戸惑いました。誤解は嫌だと単純に思いました。誤解で傷ついてきた方々が浮かんできて、誰も誤解されて欲しくない、と少し身が固くなりました。
でも、それはやむおえない過程であるのかもしれないと、しばらく咀嚼した後、思いました。患者さん達が誤解されるのは、やはり嫌です。それでも知らないと誤解もできないのですよね。精神疾患だけでなく、さまざまな障害が遠ざけられやすい社会。隠されやすい社会。怖いけれど、一度誤解のリスクがあっても、まずその存在をちゃんと知ってもらう、そして理解につなげていくということが、やはり必要なのだろうかと思いました。

でも、当事者の方々に必要以上に傷ついても欲しくない、という思いもどうしてもあります。存在を実感を持って知ってもらうということ。それは当事者の方々でないとできないことでもありますが。
だからそれは、ストレス耐性が低くなりやすい精神疾患の当事者の方々に単独で無理をしていただくことではなく、当事者といつ当事者になるかわからない事を知っている今現在エネルギーがある人が一緒にやっていくものなのだろうなと思います。

何だかまとまらないですね、やっぱり。

まとまらないついでに、いつも思っている事を書いてしまいます。
少し今まで書いたことと重なるようにも思います。

弱さを公開できる世の中になってほしいです。みんな弱いという前提を共有でき、それぞれの弱さを尊重する社会になってほしいです。
弱さがない人なんて一人もいないと私は思っています。でも、その弱さを通じて、人はいろんなことを知ります。
弱さの肯定は甘えを生むという方も、しばしばいらっしゃいます。でも思うのです。普段から弱くてもいいという前提があれば、病も早めに相談できる可能性が生まれるのではないかと、困っていると誰かに声をかけやすいのではないかと。
そして、弱さを否定する社会は、自分の弱さと向かい合うことを難しくします。人にも伝えづらくじす。加えて、弱さの否定は、実はとても怖いことだと私は思っています。自分の弱さや脆さと向かい合う代わりに、不安の形を変えて、人に押し付ける事に繋がります。例えば間違った強さの誇示、ハラスメントのような。
だから、自分の人生は自分でしか歩けないけれど、弱い同士だから時々支えながら生きよう、という社会になってほしいと思います。
そして、その弱さにはいろんな弱さがあるのです。
自分の弱さを知ったから、他の人の弱さを知ったとも思ってはいけない。
自分の弱さが伝わりづらいのと同じように、他の人の弱さを知ることもとても難しいということも、皆が知りながら生きられる世の中になってほしい。

そして、私も弱いから、医者として働く場を与えられて、支えられています。目の前の方の存在と繋がることで、自分と繋がることが、出来ています。(その方の人生をその方に歩んでいただくための支援であることをわきまえている事は、当然の前提ですが。)支えるというのは、一方向性ものではないのだと感じます。

少し前述の話に繋がるでしょうか。当事者しかできない事がある、でもそれは当事者だけでやる必要はなくて今はまだ当事者でない人と一緒だから拡がる事でもある。それがお互いに、なんだろう、力のようなものを送り合う事になる。そしてそれは、いろんな人が生きやすい社会につながっていく細い糸になる。

そうか。
誤解に出会った時、それは理解しあうチャンスの入口なのかもしれない。私の仕事は、そのチャンスを活かす機会を与えられている仕事でもあるのかもしれない。何だかそう思いました。
その与えられた一つずつの機会を大切にしていけるかどうかは、私の姿勢次第かな。大切にしていけますように。

また週明けから、一歩ずつです。


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