信じることと待つこと

息子の調子が少し前から良くない。
中2の不登校の頃と少し状況が似ている。ある出来事もあった。
心配しつつ、少しやりとりしつつ、過ごしていた。
息子なりに、中学の時を思い出し、無理をしないよう、相談できるところにはしようとしている様子を聞きながら、心配しつつ、息子なりの対応を尊重しようと思い過ごしていた。

数日前に、そのことを違うところから知った人達から、大変なことだと不安げな連絡。心配してくれているのだろう。私がそのことを知らなかったと思っていた様子。
知っていました、やりとりもしていますと、私はこう聞いていてこう思っていますと、こんな風に見守っていますと、お返事した。
でも、また揺らいだ気持ち。
その人たちの心配をうるさく思ってしまう私もいるし、そんな風に大騒ぎして、もっと介入しないといけないことだったかと思ってしまう私もいる。

でも。


私は息子を信じよう。私の信じ方で。
それは学校を休まないとか、今元気だと信じるのではなく、
私に言っていることが全て真実と信じるのではなく(息子ももう20歳を越えて、全てを親には話すわけではない)、
息子は息子の歩みを歩んでいると、そう思うこと。
息子を安泰にしようとすることではなく、揺れる息子がいたら、息子の揺れを尊重する。
心配ではあるけれど、息子なりの乗り切り方を尊重する。
その上で、その時にできることを、その時その時尽くすこと。
でもできれば、相談できるところの、頼れるところの一つとして、私の存在があれたらいいなとだけ思う。実際頼るかどうかは、どちらでもいい。ここにも頼るところがあると、息子が思えることが、大切な気がする。
こういう時無力だなと思う。でも簡単に口を出し手を出すのも違うと思う。


ここにいるよと、サインを送りつつ、見極める努力をしつつ、見守り、待つ。
揺らぎながら、待つ。
どこかスタンバイしながら、待つ。


子供といる、離れても子供といるということ。


待ちつつ、祈りつつ。

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