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愛着障害の子どもが回復する家で考えた大人の役割について|臨床心理士への随録 心理学

先日、関東圏にある児童心理治療施設へ学外実習に行ってきました。入居している6〜15歳の子どもたちは、自閉症スペクトラムや情緒的な問題を抱えており、大多数の子どもが虐待経験からの愛着障害を併有しているとのことでした。

生活風景を見学していて、関わる大人全員が、入居している子ども一人ひとりに、たっぷりの愛情を注いでいるのが伝わってきました。しかしながらこの子たちは、愛情が一番必要だった時期に、一番注いでほしかった親から与えてもらえなかったのです。今の幸せと過去の不幸せの落差というかアンバランスさに、言いようのない嘆かわしさを感じました。彼らに刻まれた傷は一生消えることはありませんが、ここでの安全安心な暮らしが、この先彼らがサバイブしていくための礎のようなものになればいいなと、願わずにはいられませんでした。

理論的にはゼロにできるはずの児童虐待が増えている

発達障害などは先天性もあるので人類が存続する限りそういう個性をもつ人は現れ続けますが、虐待から始まる愛着障害は養育者等がそれをしなければ生じないので、理論的には発生数をゼロにすることができます。しかし児童虐待に限って言えば、児童相談所における相談対応件数は2016年で122,578件、10年前の2006年37,325件からみると、実に3倍以上に増えているのが現状なのです。

虐待の発生メカニズム

以下のコラムに記載しましたが、

もうひとつ、社会システムの視点からみると、現代におけるライフスタイルの多様化による、家族の特に子育ての環境の激変が挙げられます。

「リーディングス日本の社会福祉8子ども家庭福祉」岩田昌美 山縣文治編著 日本図書センター を参考に一部加筆

日本に伝統的に存在していた親族や近隣者からの支援は、現在ではほぼありません。親(現実的には母親一人)への負担が増大し、受動的に与えられていた支援は、能動的に選択・利用するサービスの形へと変化しています。つまり、情報感度や受容性の乏しい家族は孤立しやすくなり、親の対象意識が子どもだけに向きやすくなってしまうのです。

なお、虐待通告の増加をめぐる解釈として、顕在化説(2000年施行の児童虐待防止法やそれに伴う意識の変化により潜在的だったケースが表面化した)もありますが、情報社会によるストレスや子育て環境の変化などにより、やはり実質的に虐待件数は増えているのだと思われます。

未然に防げないのか

この状況からいきなり発生数ゼロにはできなくても、未然防止や早期発見ができれば被害を少しは押さえられる。しかし、それすらも難しい理由が以下にあります。

・虐待は、貧困やストレスなどの環境要因により、大人全員が加害者になる可能性があり、本人に自覚がないため講習会などによる1次予防が効きにくい
・被害者は子どもなので、自らの判断で声をあげることが困難である
・家庭という閉鎖空間で行われるため発見されにくく、公的機関であっても介入のタイミングが図りづらい

たとえ1次予防が難しくても、多方面から警鐘を鳴らし続けることが大事だと感じています。

片寄り過ぎた愛情は危険である

ネットやSNSなどで、子ども依存症を疑う度を超えた溺愛写真をみたりしますが、私はこれもある種の虐待だと思っています。

親の子どもへの意識が、ネガティブに働けば虐待ですが、過剰なポジティブに働くと溺愛という名の子ども依存になります。エゴイスティックで粘着的な親の愛情は、永い目でみると子どもの負担になりますし、親が想い描いている通りに子どもが成長しなかった場合などに、その愛情が怒りや憎しみに変容する危険性を孕んでいます。可愛さ余って憎さ百倍は、現実問題として起こります。

「子どもの権利条約」で、子どもの基本的人権は大人と同様であると謳われています。私たち大人は、子どもは自分と別者であり、人権をもった他者であるという認識を持たなくてはいけません。子どもは親の所有物ではなく、生まれた時から個人として扱われるべきです。私もやったことがあるので戒めも込めて言いますが、SNSで正誤の判断がつかない年齢の子どもの写真を投稿する際は、色々と考える必要があります。時代性を考慮した行動が求められています。

親や養育者は、子どもの成長を支え、見守り、時に手を差し伸べる義務を遂行する役割を担っています。子どもの成長というステージで、大人が主役になってはいけないのです。大人の都合で何のいわれもない子どもが被害を被るという、理不尽で不平等な仕打ちを、この世の中から消し去りたいです。