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どうして「死ぬならひとりで」と、思ってしまうの?

川崎の連続殺傷事件から1週間。

「死ぬならひとりで」に代表される容疑者への強い批判が
こうした孤独の淵にある人々をサポートしながら、
私たちがより生きやすい社会を作っていくためには、
どうしていくことができるだろう? という
理解と共感への眼差しに変わりつつあるなぁという印象です。

...が、実際にSNSで書き込んだり、口にすることはなくても
こころのなかでチラッと
「死ぬならひとりで死ねばいいのに」とか
「どうして他人を殺しちゃうんだろう?」と思って
「ああ、私には容疑者への理解と共感がなかったな」と
ご自分を振り返っていらっしゃる方もいるのではないでしょうか。

では、今日はここでもう一歩踏み込んで...
どうして「死ぬならひとりで」という思いがでてくるのでしょう?

「そんなのあたりまえ」にとどまらず、
今日も気の向くままに、ココロについてツラツラといきますよ。

「死ぬならひとりで」で、本当に言いたいことは何?

「死ぬならひとりで」という言葉は、
「あなたが死を選ぶことをひきとめはしないが、
他人の命を巻き添えにしないで欲しい」という意味ですね。

ちょっと立ち止まればわかることですが、
誰もが等しく明日の命の保証はありません。
ただ漠然となんとなく「明日も生きているだろう」と信じているだけです。

が、連続殺傷事件はこの漠然とした明日への信頼を一気に断ち切ります。「日常のなかで、命に関わることがおきるかもしれない」という身の危険を思い起こさせます。
心の深くにしまい込んでいる「死の恐怖」に晒されるような事件です。

そう、
「他人の命を巻き添えにしないでほしい」という
「他人」は事件の犠牲者のことだけではなく、自分自身が含まれています。
無意識に。

こうした恐れは、湧き上がってきてもなかなか感じたくないものです。
瞬間的に蓋をしたり、
「恐れ」ではなく他のものに関心を向けたくなります。
その関心の先が...そう、容疑者です。

「死ぬならひとりで」は、現れこそ「容疑者への批判」ですが
自分自身や自分の大切な人の存在が損なわれることへの
大きな恐れの声なのです。

本当の声は「私を巻き添えにしないで」ですね。

「死ぬならひとりで」と思ったのなら、自分に「お疲れ様」を。

私が今日このnoteを書こうと思ったのは、
この記事のテリー伊藤さんと落合陽一さんの発言を読んだからでした。

この事件をきっかけに
「世の中をよくしていく」(テリー伊藤)、
「こうした人を孤独から救う」(落合陽一)という点がすばらしいなと思ったのです。

けれど、こうした報道を受けて
「死ぬならひとりで」という思いを持っていたり
書き込んだりしたことを
批判されているような気がした方もいらしたことでしょう。

それは、「一時停止&深呼吸ポイント」です。

ただ、あなたは、怖かっただけです。
自分の明日が保証されてないことを実感することが。

テリーさんや落合さんの発言の意図は、
「死ぬならひとりで」と発言した方々への批判ではないはずです。

私の推測ですが、おそらく真意は
「死ぬならひとりで」としか言えなかった怖さもわかってるよ、
だから
「一緒により安心できる社会を作っていこうよ」でしょう。

もしあなたが「死ぬならひとりで」とおもったのだったら
あの事件に大きな恐れを感じた自分をやさしく受け止めてあげてください。

毎日そんな恐れを感じないように、
頑張って働いたり、泣いたり、疲れたりして
ときには、毒をはいたりしてるんだな、と
自分に「お疲れ様」といってあげましょう。

そして「死ぬならひとりで」という発言に
イラっとされた方にも
「ああ、怖かったんだ」という理解が生まれていれば
心から嬉しく思います。


というわけで、今日の一言。

「他人を巻き添えにするな」は
「自分を巻き添えにされたくない」の言い換え。
ほんとは、怖かったんだよね。


今日も読んでくださってありがとうございます。
自分にやさしくお過ごしください。


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