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コンプレックスという誤解を解く【リレー形式エッセイ】 by 小貫淳子

「あぁ、愛しのコンプレックス様」というリレーエッセイのバトンをちぃ坊さんからいただきました。

リレー形式でみなさんがご自分のコンプレックスについて語る企画です。
なんといういいお題!!

私は心理セラピストという職業柄、様々な方の「コンプレックス」を伺います。悩みの度合いは様々ですが、お話を伺う時一貫して持ち続けている視点があります。

それは

全てのコンプレックスは、自分に対する(単なる)大きな誤解にすぎない。

ということ💖。


「誤解だから気にするな〜」と言っているのではないのです。それよりも、何がこの人にこの誤解をホントだと信じ込ませているんだろう、という視点を大切にしています。というのはそれが苦しみからの解放につながるからです。

といっても渦中にある時、自分が誤解をしているとは到底思えないでしょうし、誤解しているということにも気づいていないと思います。
というわけで、今回は「どのようにコンプレックスという誤解が解けたか」というお話を書こうと思いました。

長文ですが、お付き合いいただければありがたいです。


1. 顔に傷のある女

私の左まぶたには、「ものもらい」のような傷痕があります。
二十歳の冬、交通事故でできた傷です。
傷ついたまま、特に整形することもなく、そのままにしてあります。

それは事故直後に、お見舞いに来てくれた友達の一言がきっかけでした。
何人か仲間がいる中、誰もまぶたの傷について触れようとしなかったのに、一人だけ「その目、事故でできた傷なの?」と訊いた男の子がいたのです。

「無神経ねえ。そんなこときいたら、可哀想じゃないの!」と女ともだちの反論も意に介さず、そのコは続けました。

「あの...その傷...大したことないと思うんだよね...。
傷があってもいいというか、
それがあっても○○の価値は変わるもんじゃないというか...
別に傷がなくても○○は○○だったし、今も○○だしさあ...」
(○○には当時の私のあだ名が入ります)

当時私はまぶたに傷痕が残ったことにそれなりのショックを受けていました。誰にも見せたくなかったので、しばらく外から目がみえないようにサングラスをかけて過ごそうと思っていたのです。

そんなとき、この一言は、とてもありがたく、涙が出そうでした。
そして私は、この一言に後押しされて、「この傷痕をこのまま隠さず、共に生きる」と心に決めました。

2. 約束したんだもの

とはいえ、しばらくは化粧をするのも、写真を撮られるのも抵抗がありました。就職や結婚ができないかもしれないと、悩んだこともあります。
「整形するか?」と思ったことも何度もあり。

そのたびに
「いやいや、共に生きるってきめたのはどこの誰?」
「整形したからっていって、本当に採用されると思う?」
「もっと大変な人もいるんだし」と、自分を奮い立たせてきました。

そう「共に生きる」と決めたのだから。
私は自分との約束を守りたかった。そういう私でありたかったのです。

3. 置き去りにしたままの傷ついた感情たち

そして、事故から随分と…おそらく20年以上も過ぎていたでしょう。若い日の大妄想は取り越し苦労に終わり(笑)、私は仕事にも就き、結婚もしていました。

その日もいつものように寝る前の歯磨きを終え、鏡をのぞいていました。
なぜかその日は、ふとこんな思いが湧いてきたのです。

この目になって随分経つなあ。
もしかしたら、この目になってからのほうが長いなあ。
もう、こっちのほうが馴染んでるくらいだな。
時間が経てば、笑い話になるって、ほんとだな。
残りの人生も、この顔でいくんだな。うん。

....と、和やかな気持ちになったのもつかの間、

ん?待てよ?
残りの人生、どころじゃないや、お棺に入ってもこの顔だ。
あれ、遺影も、この顔だぞ。
そうだよね、死んだ後も、この顔が残るんだ。

て、そのときはじめて

「ほんとはこんなもん、嫌いに決まってるじゃないかっつ!
残したいわけないじゃんか!!」

という怒りのエネルギーが胸の奥から
静かに、フツフツと湧き上がってきました....🌋。

え、なに?わたし、怒ってたの??。マジ? 怒ってたんだ...?!!

怒りが湧いてきたこと自体への驚きです。
だって「サングラスはかけない」と決めたあの時、私はこの傷を受け容れたつもりでいたのだから。

でも違ったのですね。"つもり"は"つもり"。
怒りながら、私はわかってました。

ずっと思っていたのです、うっすらと。
この傷痕に、負けたくないと。
この傷痕のせいで、自分自身を不幸にしたくないと。肩肘張っていた。

だから全ての感情を「ないこと」にしていました。

本当は、この傷のことが恨めしくてたまらなかった。
自分の人生も呪っていました。

自分のなかに、そんな感情が渦巻いていたことに本当に驚きでした。ずーっと自分の感情に蓋をし続けていたことに初めて気づいたのです。

中でも驚いたのは事故の原因となった車の運転手への怒りや憎しみでした。事故は過失で、私の傷は浅く、そして誠意を持って償ってくれたので、私は相手の方を責める気持ちが全くなかったのでした。あまりにも深く詫びる姿に気の毒にすら思っていたくらいだったからです。

なので、その怒りと悲しみに触れた時、
私は自分自身に対して「ずっと、気づいてやれなくて、ごめんよ」と思いました。

その夜は、さんざん泣いて、怒りました。
パンドラの箱があいたような晩でした。

4. コンプレックスだとすら認められられなかった

「(傷/傷痕があっても)価値は変わらない」ー という友達のひとことは、確かに私の支えになっていました。が、これは裏を返せば「傷痕のある私は価値がない」と信じていたからです。

そして心底「私の価値は変わらない」と思っていたわけではなかった。

私の中にずっとあったのは「傷痕はあるけど、前に進むぞ」という闘争心でした。「まぶたの傷痕は私の価値を下げた。だから私は他のことで私の価値を回復するぞ!。私はそういう強い人間なんだ!。」みたいな感じ。

20年以上、自分自身を「まぶたの傷痕」の被害者にしていたのですね。
「傷痕のある価値のない私」から「傷痕があっても価値ある私」になりたかっただけ。「傷痕」を埋めるものを一生懸命探して埋めていただけの時間。

なぜそんなことになったのかといえば、前に進もうとする闘争心を生みだすものを全く見逃していたからです。傷ができた当時に生まれた怒りや悲しみ、ショック...十分感じ、向き合うことなく「ないこと」にしたまま抱え込んだだけだった。

まぶたの傷痕そのものに手を入れたり、隠したりせず「共に生きて」いたけれど、心の傷痕は、もっと奥深くに埋めて隠そうとしていた。

なにしろ、私は口に出すことすらできなかったのです。
「まぶたの傷痕が、私のコンプレックスだ」と。
それだけまぶたの傷痕に縛られていたのですね。

5. こころをひらく時、握りしめている嘘は消える

あまりにも感情的ダメージが大きい時、私たちは感情を感じることを「麻痺」させることがあります。生き延びるための無意識の選択です(一般的にトラウマと呼ばれるもののほとんどがそうです)。

私もそうでした。
事故そのもののショックや恐怖感、「傷」や「傷痕」そのものに対する怒り悲しみを正面から受け止めきれなかった。それに加えて「傷痕」を持つ自分自身-つまり「キズモノ」である自分を「価値のない存在」とみなしていたのだから、苦しみは一層深まります。

時間が経てば、心の痛みが減っていくことを「時薬(ときぐすり)」とたとえることがあります。もちろん、時間が心の傷を癒すこともあるでしょう。けれど、私の場合は長い時間ただ傷ついていた感情にフタをしてしまい込み、開かないようにとフタの上で粋がって暴れていただけでした。暴れるのをやめた時、はじめて感情があったことに気づけたのでした。

私を苦しめていたのは「まぶたに傷痕がある私は価値がない」という思いだったと、つくづく思います。「傷痕のある自分自身」という価値のない自分を見たくなくて、その苦しみの声に気づけなかった。

私の場合、「傷痕」に対する心のダメージが癒えたことで、「傷痕のある自分自身」に対する大きな赦しがおきました。
あの日起きた感情の大爆発は、傷ついて置き去りになっていた「傷痕のある自分」を赦し、癒し、迎え入れてあげるというプロセスでした。それは嵐のようにダイナミックだったけど、最終的には爽やかでやさしい時間でした。

今ももちろん、「まぶたの傷痕」はそのままにあります。
けれど、それはそれで、いいじゃないか、といまは穏やかな気持ちです。
「傷痕のついている私の顔」は、「私の顔」なだけ。「私」ではありませんから。

20年以上の時間をかけて、私はようやく「傷痕」から自由になりました。
ちゃんと言ってもらえてたのにね、高校時代の友達に(苦笑)。
ま、それもよし、です。

--- 🍀---

誰もが心に、カラダに「傷」や「傷痕」を持ちながら、なんとかやり過ごして、日々を過ごしていることでしょう。またその傷や傷痕を「コンプレックス」や自分の欠点だと信じ込んで、自分の価値を知らず知らずに貶めていることもありますね。

もちろん、コンプレックスが自分を苦しめているときは、それが「誤解」だとは到底思えないことでしょう。でも、それは「握りしめている嘘」です。

でも私は、声を大にして言いたい!

コンプレックスは、乗り越えたり、克服するものではありません。
コンプレックスは、むりに受け容れて、あきらめるものでもありません。

ただ、コンプレックスという「嘘」にリアリティを持たせてしまっているものを、心の奥にみつけにいってあげればいいだけ。自分の中にある表現しきれなかった気持ちをきいてあげればいいだけのこと。

もちろん、今すぐ「嘘」だと思えなくてもいい。
でも、必ず「嘘」だと気づく時が来ます。
それは大きな愛と赦しの時間です。

コンプレックスを持つ、全ての人に、そんな瞬間が訪れますように。
そのときに、きっと心からこの企画のタイトルの素晴らしさが実感できることでしょう ー「あぁ、愛しのコンプレックス」。

---

【おしまい】

《著者プロフィール》小貫 淳子
世の中のアレコレをココロのしくみという視点から解き明かしたり、自分らしさに立ち返るヒントなどを書いています。時々ボヤキあり。カメラ女子。シーズーラブの犬バカ。だいたい夕方に投稿してます。 OAD心理セラピスト | junko-onuki.com

--- ⭐️⭐️⭐️---

さて私の次の方はこちらの方です!

✨✨翠乃 尚さんです✨✨。  

娯楽ないみさんからのご紹介、本リレー初の男子ランナーです。
キレのある文章が魅力的。
ないみさん、ご紹介ありがとうございました💖。

翠乃 尚さん、どうぞよろしくお願いします!!


--- 💐💐💐Special Thanks 💐💐💐---

バトンを渡す方がなかなかみつからず、ちぃ坊さん、娯楽ないみさんをはじめ、お力貸していただだいたみなさま、本当にありがとうございました。
改めてお礼申し上げます。

このリレーエッセイのおかげでつながることのできた方々の暖かさ...
これもコンプレックスのくれた大きな人生のご褒美になりました。
感謝しかありません💖。

どうもありがとうございました!

----💐💐💐----

ではでは、長文/駄文、お読みいただきありがとうございました。
このへんでおひらき、ということで〜〜〜😊😊😊

noteは長めのひとりごと。 「役に立たなかったけど、読んでよかった」そんなものを書いていきたいなあ。 💫noteユーザーではないかたも「スキ(❤️)」ポチッとできますよ。