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『アリスのための即興曲』Vol.29 森田の兎穴

習作『アリスのための即興曲』というのを書いております。
ラストを書き直しております。
もしご興味がありましたら、ぜひ。


あらすじ

大学3年生の坂本は、華道の講師である祖母とふたり暮らしをしている。
ピアノを弾くことが趣味の、どこにでもいるような学生だ。
ある日偶然見つけたフランス語レッスンの張り紙を頼りに、彼は古びた洋館へと向かう。
レッスンを担当するのは、アリス・デュボワというフランス人の女性だ。
彼女はレッスン料を請求しない代わりに、毎回、不思議な頼み事をする。
坂本はアリスに惹かれながら、抗いがたく「兎穴」という闇の中に引きずり込まれていく…。

初めての方は、こちらからどうぞ。

Vol.1  兎を追いかけて

前回のストーリーは、こちら。

Vol.28 真実はいくつもある

本編 Vol.29 森田の兎穴



 金曜日の夜9時、僕は青山のバーにいた。店の中は例によってひっそりとしていた。チェット・ベイカーのトランペットの音が遠慮がちに流れていた。僕は例の封筒とイヤホン、そしてノートパソコンを入れたリュックサックを背負っていた。不格好に膨れた荷物は、洒落た店内の中でひどく野暮ったく見えた。僕は入口から離れた隅の席に座り、ジンジャー・ホット・トディを注文した。バーテンダーは一礼すると、夜の燕のようについと去った。
 10分ほど遅れて森田がやってきた。キャメルのコートの下にグレーのストライプスーツという格好で、相変わらず雑誌から抜け出てきたみたいに目立った。彼は僕の姿を見つけると軽く手を上げ、颯爽と歩いてきた。ムスクの香水がほのかに香った。

「ごめん、遅くなっちゃって。今晩はやけに冷えるね」
彼はコートを脱ぐと僕の目の前の席に腰をかけ、「いつもの」とバーテンダーに言った。バーテンダーは心得顔で頷き、カウンターの奥に消えていった。季節が冬であるということを除けば、なんだかいつかの場面を巻き戻しで見ているみたいだった。

「久しぶりだね」と森田は言い、口の端をほんの少しだけ上げて微笑んだ。近くで見ると彼の顔は半透明のゼリーで出来ているみたいに生白く、目の下の隈が目立った。いつも外見に気を配っている森田にしてはめずらしいことだった。彼はポケットから煙草の箱を取り出し、「いいかな」と言った。僕は頷いた。意識して選んだわけではなかったが、そこは喫煙席だった。彼は目を細めて煙草を吸った。紫煙が立ち昇り、気弱な龍のようにそこらを舞った。
「アリスに言われてずっと禁煙してたんだけどね」彼は言い訳するように言った。
「で、話って?」



 僕の心臓は急に縮こまってしまった。なんだか自分のしていることがどうしようもなく愚かなことのような気がした。目の前にいる森田は、いつもと変わらぬクールで穏やかな森田だった。僕は突然、無罪のひとに背後から切りつける無頼漢になったような気がした。自分のしようとしていることが正しいのかどうか、確信が持てなくなった。僕は大きく息を吸い、意を決してリュックサックに手を掛け、中の物を取り出してテーブルの上に置いた。
「見覚えはありませんか?」
僕の声は震えていた。心臓が行き場を求めて躰中をうろうろしていた。
森田はそれらの物を訝しそうに見ていた。あまり興味がなさそうな様子で、例の紙を手に取りさっと目を通したが、彼の表情は特に変わらなかった。
「何これ?」
「僕の家の郵便受けに入っていました。4日前、月曜日に。消印はM区郵便局のもので、差出人は不明です」
「それで、俺とどう関係があるの?」森田は面倒くさそうに尋ねた。
僕はかっとなるのをどうにかこらえて言った。
「祖母が、月曜日の夕方あなたらしき人を見かけたと言っています」
森田は煙の向こうで目を瞬いた。
「俺を、君のおばあさんが?」
僕はきっぱりと頷いた。森田は訳がわからないという表情を浮かべていた。これが演技だとしたらアカデミー賞ものだ。僕は祖母の語ったことを要約して森田に伝えた。
「それはあり得ないと思うな」話を聞き終わると、彼は静かに言った。
「第一に、俺は君の家を知らない。第二に、平日の夕方にぶらぶら出来るほど暇じゃない。第三に、俺がサングラスをかけるとヤクザみたいなひどい顔になる。だからその人物は俺じゃない。君はなぜか俺を疑っているみたいだけど、これは事実だよ」
「本当にそうですか?」僕は震える声で言った。心臓が激しく波打ち、口から逆流しそうだ。森田は瞬きをし、遠くの看板でも眺めるみたいに目を細めて僕を見た。
「森田さん、僕がこんなことを言えた義理じゃないのはわかっています。でもこれはあんまりじゃないですか」
僕は震える手でノートパソコンを立ち上げ、例のUSBメモリをセットした。森田にイヤホンを渡し、彼が装着したのを確認するとビデオの再生ボタンを押した。森田は吸い込まれるように画面を見つめた。先日と同じようにアリスが現れ、体験談を語り始めた。僕はここ数日間でいやというほどビデオを観ていたので、彼女の唇の動かし方や眉根の寄せ方、せりふの一つ一つに至るまで熟知していた。最後に彼女は上着を脱ぎ、脇腹の痣を見せた。森田は愕然とした表情でそれを見ていた。


 再生が終わると、森田は顔に手をうずめてしばらく動かなくなってしまった。彼は重力を失ったひとのように見えた。彼の足元にぽっかりと穴が開いていて、そこにすべての音やひかりが吸い込まれていくようだった。彼もまた、兎穴に落ちてしまったのかもしれないと僕は思った。耳を澄ますと、彼が何事かを呟いているのが聞こえた。かそこそと森の中を這う小動物の足音のように。

― アリス、かわいそうなアリス。

そして彼はゆっくりと顔を上げて僕を見た。混乱と、怒りと、悲しみと絶望の色が混ざりあって彼の顔は激しくゆがんでいた。演技でこのような表情ができるとは思えなかった。
「坂本くん、君は本当に―」
「森田さん、誤解しないでください。アリスさんと会っていたことは認めます。でも誓って言いますが、僕はこんなことしてない。出来るわけがないんです」
「どうして?」
「だって―だって、僕は彼女のことを愛しているから」
僕はまっすぐに森田の目を見つめて言った。マグマの中から生まれ出る新しい火山みたいに、心臓が激しく鳴っていた。腹の底が原子炉のようにぐらぐら燃えていた。


 バーテンダーが滑るように現れ、森田の前にワイングラスを置いて静かに去っていった。彼は森田の世界が激しく崩れ去ってしまったことに気が付いていないようだった。店内にいるまばらな客たちも、舞台装置の一部みたいにひっそりとしていた。まるで僕と森田だけがちがう惑星にいるみたいだった。
「信じるよ」
長い沈黙の後、とても小さな声で森田が言った。
「君とアリスがレッスン以外でも逢っていたのは、なんとなくわかっていた。防犯カメラに君の姿が何度も映っていたし。でもふたりの間にどんな関係があったにせよ、君はこんなことができる人間じゃない」
彼はグラスに手を伸ばしたがワインには口を付けず、しばらくそれをもてあそんでいた。葡萄色の液体が血のようにゆらめいた。ああ、やはり彼は知っていたのだと僕は思った。見えない細い糸で全身を縛り上げられているみたいに苦しくなった。
「森田さん―」
彼は手を上げて僕を制し、かすかに微笑んだ。それからワインをひとくち飲んだ。
「いいんだ。俺たちの関係はどのみち冷え切っている。俺は仕事、仕事でほとんど家にいないし、アリスは…」
祈るようなかたちに指を組み、彼はそこに額を乗せた。遠方からやってくる暗雲が去るのを待っているみたいに。それから彼は目を開けてまっすぐに僕の方を見た。
「君は彼女とそれほど歳も違わない。若くて、魅力的でもある。君ならきっと彼女の求めているような安らぎを与えてあげられるだろうと思ったんだ」
彼の頬に一瞬だけ微笑が浮かんだが、苦いものでも口にしたように顔をしかめた。
「それに…」彼は言葉を切り、口の中で舌を何度か転がした。うまく言えないセリフを練習している役者みたいに。それからようやく意を決したように言った。
「彼女の相手は君が初めてじゃないんだ」


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