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『アリスのための即興曲』Vol.22 ヴィーナスの復讐

習作『アリスのための即興曲』というのを書いております。
ラストを書き直しております。
もしご興味がありましたら、ぜひ。


あらすじ

大学3年生の坂本は、華道の講師である祖母とふたり暮らしをしている。
ピアノを弾くことが趣味の、どこにでもいるような学生だ。
ある日偶然見つけたフランス語レッスンの張り紙を頼りに、彼は古びた洋館へと向かう。
レッスンを担当するのは、アリス・デュボワというフランス人の女性だ。
彼女はレッスン料を請求しない代わりに、毎回、不思議な頼み事をする。
坂本はアリスに惹かれながら、抗いがたく「兎穴」という闇の中に引きずり込まれていく…。

初めての方は、こちらからどうぞ。

Vol.1  兎を追いかけて

前回までのストーリーは、こちら。

Vol.21 毒蛇


本編 Vol.22 ヴィーナスの復讐


 夢を見た。
僕は裸足で夜の街を歩いている。街灯のひかりは消え、藍色の空には月も星もない。僕の手には一通の手紙が握られている。それは羊皮紙にヒエログリフ文字で書かれた文章だった。意味不明の記号が紙の上で踊っているように見える。けれどそれがアリスからの手紙であり、僕を導くために書かれたものだと、なぜか僕にはわかる。それらの文字を解読すると、ルーブル美術館への地図だということがわかった。僕は指示された道を一心に歩いた。



 闇の中にピラミッド型の建物が幻のように浮かび上がっていた。神の国への入口のように煌々とひかっている。不思議と警備員はいない。僕はやすやすと建物の中に入る。館内もやはり真っ暗で墓場のようにひやりとしている。長い、長い廊下を抜けると、鏡の間に出た。そこにはギリシャ神話に登場する女神の彫像が立ち並んでおり、めまいのするほど果てしなく続く鏡の中に幾千もの顔が映し出されている。彫像の中のどれかにアリスの魂が隠されていると、彼女はヒエログリフ文字の手紙の中で伝えてくれた。僕はまっすぐに歩いてヴィーナスの女神像の前に立つ。腕のない女神は透明なまなざしで宙を見つめている。動かない唇は言葉を語ろうとする。ふと、女神像の瞳から涙がこぼれ落ちた。間違いない、これがアリスだと僕は思う。僕は駆け寄り、女神像を抱きしめた。

 その時、警笛が鋭く鳴った。どこからか数十人の警備員が現れた。彼らは全身黒づくめの制服姿で一斉にピストルを僕に向け、「動くな!」と叫んだ。
 気が付くと僕は一糸まとわぬ姿で、広間にぽつんと立っていた。鏡に映る夥しい数の女神像は消え、そこにはヴィーナスの女神像だけが残っていた。僕は彫像によじのぼり、冷たい唇に口づけをする。ヴィーナスはあいかわらず青白い顔で、不満とも満足とも言えぬ目つきで僕を見つめている。僕はアリスを救うために、その冷たい躰のもっともっと奥深いところに達さなければいけないと思う。

「これはアリスなんです」と僕は言う。
「アリスの魂が叫んでいるのが聞こえたんです。これは彼女が望んだことなんです」
僕の声はむなしくこだました。僕の言うことを信じる者は誰もいなかった。彼らはヴィーナス像にへばりついている妙な男を強引に引き離し、手首に手錠をかけた。手首が引きちぎれるのではないかと思うほど、それは重く冷たい。ふと警備隊の背後に森田が現れる。彼はじっと僕を見ている。彼の唇は奇妙に歪んでいて、悲しんでいるのか、微笑んでいるのかわからなかった。


 そこで目が覚めた。
心臓が激しく打ち、耳鳴りがした。自分がどこにいるのかしばらくわからなかった。枕元の携帯電話を見ると、朝の5時だった。喉がとても渇いていた。台所に下りて水を一杯飲んだ。心臓の鼓動はまだおさまらず、指が痺れていた。しんしんと寒気が躰に沁み込んできた。自室に戻ったが、目が冴えてしまって眠れそうになかった。夢とうつつを頭の中で行ったり来たりしながら煩悶していると、携帯電話が鳴った。僕はぎくりとした。こんな時間に誰だろう。無視してしまおうかとも思ったが、振動音はいっこうに鳴りやまない。仕方なく携帯電話を手に取ると、着信はアリスからだった。僕は震える指で通話ボタンを押した。
「もしもし」と僕は言った。
「こんな時間にごめんなさい。今、大丈夫?」アリスはフランス語で言った。
「大丈夫だけど、どうしたの?」と僕もフランス語に切り替えて言った。
彼女はその質問には答えなかった。3秒ほどの沈黙があった後、
「今、来れないかしら?」と小さな声で言った。言葉のはしっこが消えてしまいそうなほど、弱々しい声だった。その声を聞くと、心臓がぎゅっと掴まれたように苦しくなった。子どものころ、通学路の途中で死にかけている鳥を見つけたことがあったが、その時の気分によく似ていた。なんだかいやな予感がした。
「何かあったの?」
彼女は無言だった。金属片みたいなかたい沈黙が流れた。耳が痛くなりそうだった。彼女はかたくなに何も話そうとしなかった。僕は頭の片隅で山手線の始発電車は何時だろうかと考え始めた。
「今から急いで行けば6時前に着くと思うけど、それでいいかな?」と僕は言った。
「いいの?」明らかに安堵したようにアリスは言った。
「もちろん。すぐ行くから待ってて」
僕が言い終わる前に電話は切れた。何かを無理矢理引きちぎったような、ぶつんという音がした。僕は急いでシャワーを浴び、服を身に着け、身支度を整えると飛ぶように駅に向かった。



 午前5時半の電車は幽霊列車のように人気がなかった。蛍光灯が寒々しく車内を照らしていた。僕は窓際に立って流れゆく景色を見つめていた。うっすらと明るくなりはじめた空に、三日月がぽつんと引っかかっていた。電車が駅に着くと、僕は駆け足で森田家に向かった。吐く息が白い。朝露で濡れた坂道をぐんぐん登ってゆく。例のセキュリティカメラの赤い光線を受け、アリスが解錠してくれた門をくぐり、やっと玄関に到着した。

 居間の電気は点いておらず、室内は翳っていた。部屋中の壁に藻でも貼りついているみたいに空気は澱んでいて、床は海の底のように冷たかった。アリスの姿が見えない。胸がひやりとした。僕は無我夢中で寝室に向かった。
 足を踏み入れると、幾重にも重なった毛布の山の中にパジャマ姿のアリスがいた。顔面は色を失って蒼く、唇は紫色だった。眼は大きく見開かれ、死人のように無表情だった。僕は彼女の元に駆け寄り、抱きしめた。彼女はぐにゃりと躰を預け、僕の腕の中でしばらく震えていた。何かを言おうとするのだが、歯の根が合わず、言葉が出てこない。それから掠れた声で、喉の奥から絞り出すように言った。

「あのひとは…主人は、全部知ってるの」彼女は囁くように言った。
冷たい手で胸を鷲掴みにされたような気がした。耳の奥できいん、という鋭い音がした。心臓がものすごい速さで打ち、躰中の血が全身を駆け巡った。指先が冷たくなり、吐き気がした。頭の芯が痺れて、ついに来るべきものが来た、という思いと、やはりそうかという思いが交錯した。



 アリスはゆっくりと話し始めた。昨晩遅く、森田が酔っぱらって帰宅したこと。僕との関係を問い詰められたこと。腕を強く掴まれ、話せと脅されたこと。気が付いたらアリスはベッドの上にいて裸で気を失っていたこと。そうしたことを、彼女は震える声でぽつり、ぽつりと話した。話しながらも体力をだいぶ消耗するようで、時折ベッドの背もたれに寄りかかって、眩暈が過ぎるのを待たなければならなかった。話し終わると、ぜんまいの切れた人形みたいに宙を見つめたまま動かなくなってしまった。僕はしばらく黙って彼女の肩を抱いていた。 

 僕は妙に冷静だった。台風の目の中にいるように、不思議と心は凪いでいた。今は目の前にいるアリスを守らなければと思った。「森田さんはどこにいる?」と僕は尋ねた。「わからない。昨晩、ひどく興奮していたから、もしかしたら家を出てどこかで飲み歩いているのかも。携帯にかけても繋がらないし」アリスは考えながら言った。
「なるほど」僕は少しほっとして言った。沈黙が下りた。窓の外では白々と夜が明けようとしていた。
「ひとつだけわからないことがあるんだ」と僕は咳払いをして言った。
「言いにくいことだとは思うんだけど、大事なことだから答えてほしい。裸で気を失っていたあいだに何があったか、覚えてる?」彼女はゆっくりと首を動かし、虚ろな目で僕を見た。それからパジャマの上着をゆっくりと脱いだ。


 そこで僕が目にしたのは、信じられない光景だった。左手首には赤紫色のあざが、そして右の脇腹には生々しい打撲痕のようなものが残っていた。まだ新しいものらしく、彼女の白い肌を無残に赤黒く染めていた。
「気が付いたらこうなってたわ。でも本当に覚えてないの」アリスは淡々と言った。
僕はアリスを抱きしめた。腹の底が熱くなり、目の前が暗くなった。耳の奥でがんがんと音がした。世の中にこんなことが出来る人間がいるなんて、信じられなかった。僕が眠っているあいだに彼女はどんな苦難に耐えたのだろうと思うと、不憫でならなかった。僕は生まれてはじめて、ひとを殺したいと思った。

 アリスは僕の腕に抱かれながら泣いていた。シャツが彼女の涙で温かく湿っていった。彼女は泣きながら、ごめんなさいと言った。小さな子どものようにしゃくりあげ、肩を震わせながら。
「どうして謝るの?君は何も悪くないのに」
「だって、元々はわたしたち夫婦の問題なのよ。決定的な選択をするのが怖くて、ずるずるとここまで来てしまったけれど、本当はいつか決めなくちゃいけないことだったの。あなたは何も悪くない。わたし、あなたの優しさに甘えてしまっていたの」
彼女は嗚咽で声を途切れさせながら言った。僕は彼女の肩をさすりながら、大丈夫、大丈夫とささやいた。けれどもちろん「大丈夫」な保障なんて何ひとつなかった。
 ひとしきり泣いた後、彼女はベッドの上に足を投げ出してぽかんとしていた。まるで憑き物が落ちたみたいに。それからぽつりと「あのひとと離婚しようと思うの」と言った。


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